映画、映画、映画

いちにちいっぽんえいがをみてなにかをかく(多分できない)ネタバレはあり。そうは言ってもただただ筋書きとか書いていったり細かく解説してとかそういうものではない。観た後に忘れないうちに急いで書くので誤字脱字はたいへん多い。近頃、寝る時間の関係上、映画が見れないこともある。

「プロメテウス」/「エイリアン・コヴェナント」

 

 監督:リドリー・スコット

 2012年/2017年

 

 終わってみて思うのは、「エイリアン」(1979年)とまだ完全に繋がってないように見えることだ。ただ、今更そんな整合性など気にしても仕方ないのでは?とか、映画として面白ければいいのでは?と思える。

 映画自体は、いかにも現代のSF作品らしく、細部まで詳しく描かれた宇宙船や背景とデジタルらしさのある涼しげな色調をしている。

 今作は、それまでよりも、よりもっと抽象的なテーマがメインに据えられる。それ自体は、前作である「エイリアン4」と共通する部分があるだろうし、アンドロイドの性格や創造に関することをめぐるくだりは似通ってると言えるかもしれない。それは、さらに深く掘り下げられ、創造主をめぐる宗教の立場や科学の立場、そして空想科学の立場を踏まえて、エンジニアによって作られた人間と、人によって作られたアンドロイド、そしてアンドロイドによって完成されたエイリアンの関係は良くできていると言える。難解そうに見えるがかなり単純な構成といえよう。そこにはアニメ映画「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」にもあったような、しばしば見かけることのある人工生命体の心という問題や、人間の寿命と永遠の命などの要素が物語を一層複雑に見せる。

 ただ、やはりこの連続する2作品を包括的にみれば、中心には創造という行為がある。そのことに気づいているのは作中でもデイヴィッドと呼ばれるアンドロイドのみで彼こそが、この物語をコントロールする存在と言える。それらしく主人公が設定されているものの、この物語を2つで1つとして考えれば、間違いなく主人公はデイヴィッドなのだ。

 この映画で描かれる被創造物の創造主への叛逆は、確かにこれまでのシリーズでもみられることだろう。攻撃のために作られた完全な生物は人間なしでは成体になれないにも関わらず、人間を殺しまくるのだ。もしかするとここにウロボロスのような関係が生まれるかもしれない。人間によって生み出されたアンドロイドが生み出したエイリアンが人間を殺す。これはアンドロイドによる叛逆のようにも見えるが、結局のところエイリアン自身の祖父母的な存在に対する反逆でも有る。それは、劇中においてエンジニアがデイヴィッドによって壊滅させられたことと相似の関係にある。

 この直接なされないという点では皮肉な関係は、運命的なもの、つまりそこに神(作家)的なコントロールがある。作中で語られる神は、その世界を作った作家であり、つまり彼らはまた全ての創造主である。結局のところ作中の登場人物が何を言ってもそれですら作られたものなのだ。

 

 1つ言うならば。前日譚の持つ力についてだ。確かにそれは人気だろう。ミステリ小説で探偵が謎を解き明かして見せたときのような気持ちになる。ああ、そういうわけだったのか。とか、本当はこうだったんだ。とか。

 ただ、それはマジシャンが種明かしをするようなものでもある。そこにあった魔法が消えてしまうのだ。絶対不可能とされ、魔法の類かと言われるようなトリックー例えばジョン・ディクスン・カーの小説のようなーが種明かしされるのは、気持ちよさと共に残念な気持ちにもなる。だからこそカーはその作品「火刑法廷」においてあえて魔法を残したのだ。

 エイリアンの持つ怖さは、その魔法によるところがあるだろう。しかし、複数のシリーズが作られ、その度に生態が明らかになるにつれて、それが持つ言いようのない気味の悪さは、物質的で兵器的な恐怖に変わる。この映画の辻褄の合わない部分はそれを意図したとは思えないが、良くも悪くも、不気味な含みをもたせた。しかし、デイヴィッドが地下に案内し、あの見た事のある卵を見せたときに、魔法は解けてしまった。それはもはや超常の存在ではなく、作られた兵器にすぎなくなった。

 この映画は蛇足だったのではないか。そう感じずにはいられない。しかし、映画としてなかなか面白いので、変に保守的なファンでもない限り、そんな事どうでもいいと思える。まあ、いっか。面白かったし、と。