それらしくなく、それっぽく

映画やドラマのネタバレがいっぱいある。誤字脱字もいっぱいある。

渇き。

監督:中島哲也

 

2013年

 

 映画におけるグロテスクさは、とある分水嶺を境にコメディとなってゆく。私は、この映画を見てそう感じた。過去が過去のものとなってゆくにつれて社会から人間性が失われつつあるという漠然とした時代の雰囲気と、俳優の深刻な演技は、作品を味の濃い、あるいは気魄あるつぶてとして観客に投げかける。派手な設定、浮世離れしたアンリアルな人間たちの交わる模様を伴って物語が進み、発展してゆくと共に、よりおかしみを湛え始め、最終的に雪原という空白において爆発する。(ビックバンの後の世界を人間は、しばしば白い世界だと思いこみがちなのかもしれないが)

 この映画が徐々にコメディ化してゆく中で、それが、はっきりしない確信に至ったのが中盤の屋上駐車場のシーンであった。カメラがよく動き、感情がよく動く主観的な映像が、急激にフィルムの質感を持った背景と、主人公だけではなく包括的なアイデンテティを持った視点に変わったとき、この作品が”ファーゴ”(1996)であったり、”ヘイトフルエイト”(2015)というような映画が持っているようなエンターテインメント性を獲得していったように感じた。その点で言えば、前半はどのような視点で楽しめば良いのかわからない映画だったとも思える。

 しかし、取り扱うテーマが濃厚であるからと言って、そこから社会派サスペンスの様相、そして重厚なミステリの予感を勝手にミスリードしたのは私の方で、考えてみればオープニングの時点でかなりふざけた(もちろん良い意味で)雰囲気であったことは間違いがない。その視点に立ち返ってみれば、最序盤にあった、目まぐるしく切り替わるカットの連続は、よくあるコメディ映画の手法によく似ているのかもしれない。

 

 物語の中での娘の思い描く愛の形は、なんとなく勘違いを含んでいるし、それに振り回される周囲の構造もひどく滑稽で、誰もがよく考えて生きてるんだか、何も考えていないんだか、リアルなようでアンリアル。だがそれは、主人公である父親も、夢と現実の双極の混じり合う存在としての曖昧さとよくマッチしていたし、アニメと実写の混ざり合う少年の視点とも合致していた。

 こうした演出は、非常によく機能していて、一見して混沌として何も構造が見えない中にも、極めて理性的な建築があることに気付かされる。その組み立ては見事であった。

 

 薬物やどん底を映す作品を見ていると、しばしば、社会のはみ出しものや落伍者の世界には、なんらかの深みがあるという考え方を見ることがあるが、何か非現実的なことに説得力を持たせようとするときに、そうした感覚に頼ることが果たして安易ではないと言い切れるのか、私は不思議に思うことがある。1960年代のカルチャーの文脈でいえば、そこに説得力があっても、現代において同じようなトリックが機能するのかどうか。こうした薬物とそれを取り巻く環境を、もはや我々は一種のモチーフとして考えなしに使い古してはいないだろうか。

 私は、この映画を見てふとそんなことも思った。

 

 笑って見て良いと思えば実に楽しい映画である。しかし、その深刻さに圧倒されてしまった人にはあまりにもつらい映画になってしまうのかもしれない。