映画、映画、映画

いちにちいっぽんえいがをみてなにかをかく(多分できない)ネタバレはあり。そうは言ってもただただ筋書きとか書いていったり細かく解説してとかそういうものではない。観た後に忘れないうちに急いで書くので誤字脱字はたいへん多い。近頃、寝る時間の関係上、映画が見れないこともある。

「山猫」

 

 監督:ルキノ・ヴィスコンティ

 1963年

 

 この国に住む我々は多くの場合、このイタリア統一という出来事を歴史的な事件として学ぶこととなる。教科書に描かれた赤シャツの兵士たちやガリバルディの肖像、そしてイタリア半島の地図を通して、そこで何が起こったかを知る。しかし、この映画は歴史ドラマとしてではなく、シチリアに住む貴族と彼らを取り巻く世界の変化という、あくまでも人間のドラマとしてイタリア統一を描く。そうして我々は、歴史の教科書にある事件にあった、忘れ去られようとしている事実に目を向けることとなるのだ。

 

 この映画は、貴族社会の持つ虚栄や偽りを見事に描いて見せている。耽美的とも言えるであろう映像と、現実味の無い人間たちはその時代に貴族社会が直面した危機や変化をより現実味のあるものへと変えた。そして我々はまた、現在も続く上流の生活へと思いを馳せる。

 本来貴族階級は王や伝統に与えられた特権、つまり人間によって作られたもので、始まりは統治を円滑に進めるための政治的な機構であったり、地元の権力者であった。彼らはその長い生活の中で富を蓄え、権力を確固たるものとして、時には平民たちとの違いを顕示させて見せた。

 こう言えばいかにも前時代的に聞こえるかもしれないが、映画で描かれる19世紀のシチリア島であっても、彼らはあたかも王であるかのような力を民に行使する。そして、この映画は、そのシステムの終焉の時を描いている。

 ではなぜ、それは終焉を迎えたのか。歴史的背景を考えれば、フランス革命に代表されるような個々の人間が持つ力への再評価や、裕福な一般市民の台頭が原因とも言える。しかし、それは結局のところ、貴族が持つ魔力が失われたことに違いはない。つまり、彼らがそれまで誇ってきた、絶対的な王や王家から与えられた特権的な地主としての権力や知識や芸術の囲い込みに限界がきていたのだ。

 多くのものに値札がつけられ、大きな商売を行うようになった市民がそれらを手にれることで、それまで魔法のように見えていたものがただのものに成り下がる。市民は貴族であっても所詮はただの人間であることを意識せざるを得なくなり、それまで憧憬を抱いてきた何かが消えてしまう。歴史や伝統という力にしか拠り所はなく、それは富や権力とは必ずしも結びつかない。ここに実のない豊かさが生まれてしまう。

 そして、それまで一般市民として生きてきたものが金を得ることで貴族のような暮らしを始め、貴族と結婚することにもなる。洗練された文化としてそれまで、マナーや暗黙のルールがあった世界にそれを知らぬ新たな者たちがやってきたのだ。伝統はますます形だけのものとなり、ついにはそれまであった秩序や歴史も曖昧なものとなる。金と伝統の入り乱れる混沌を呈するのだ。

 

 当たり前なことかもしれないが、この映画で描かれた世界は今の世の中に直接つながる。それは、我々のいまいる社会にある豊かさの持つ欺瞞もよく指摘しうる。もしかすると、ヴィスコンティ自身、映画業界に身を置くようになってある種の貴族的な社会を見てきたに違いない。

 例えば、テレビの世界に、〈一般人〉と〈芸能人〉なる対比があるところを見れば、今も貴族的社会は残っていることがわかるだろう。そこには〈芸能人〉なる存在があたかも〈一般人〉よりも優れているかのような空気がないだろうか。そして、我々はそんな〈芸能人〉の生活へ憧れを抱く。社会的な地位もあり富めるたちだけが利用できるゴルフクラブや、会員制の飲食店、どこを見ても貴族的な閉鎖的空間はみつけられる。そこにはまだ魔法が存在しているようにも見える。

 しかし、それは貴族的であるにすぎず、むしろ金によって築かれた、実だけの、蓋のない無限の逸脱とも見える空間とも言える。いまだに、貴族の地位や権力を手に入れようと子供を教育しようとする親もいるのではないだろうか。英国では今だにナイトの称号が与えられ、爵位のあるものだけの世界が存在する。それまでの流れとは逆に富めるものは権威を欲するようになる。持っていないのは、あとはそれだけなのだから。

 一方で、良き家柄だという自尊心が先行してどうにか裕福になってもらおうと教育する親もいることだろう。この交差的関係と、それが産む劣等感がどれほど人間的で、例えば死という大きな存在の前では儚いものか。