映画、映画、映画

いちにちいっぽんえいがをみてなにかをかく(多分できない)ネタバレはあり。そうは言ってもただただ筋書きとか書いていったり細かく解説してとかそういうものではない。観た後に忘れないうちに急いで書くので誤字脱字はたいへん多い。近頃、寝る時間の関係上、映画が見れないこともある。

「エイリアン3」

 

 監督:デヴィット・フィンチャー

 1992年

 

 まずこの映画で感じたのは、映画自体の出来は前作よりずっと良いということだ。それまでとは違った空気感や物語の進行には、すでにフィンチャーらしさが見て取れ、彼がサスペンス作家としてすでに卓越した腕を持っていたことがわかる。

 この映画を酷評しようとすれば、例えばお粗末な合成やそれまでのSFホラーから随分変わってしまった物語など、不安定な要素。つまり、この映画がどうあるべきかという視点から見たときの、観客が受ける肩透かしなんかが挙げられる。宇宙船やコロニーなど実にSF的なテクノロジーに満ちた舞台から一転、牛を飼い、包丁で屠殺する、幾分か中世を思わせるような要素もある、荒廃した工場に主人公は転がり込むのだ。

 こうした変化は実に唐突なものだし、当時の評価が芳しくないこともわからないでもない。しかし、この映画は、エイリアンシリーズの保守的な観点を捨てたときにその良さに気づけるようなものではないだろうか。

 ただ、大きな問題があるのは確かだ。それは、この映画にエイリアンが存在しなくとも成立し得るのではないかという点だ。もしかすると、この物語は2つの筋書きの合体なのかもしれない。1つはミステリーとして、もう1つはエイリアンシリーズとして。

 仮にエイリアンの存在が無かったとして考えてみると、どうだろうか。

 

 少人数の男だけがいる刑務所の星。誰もが凶悪な犯罪を犯し、長期間そこにいる。外界から孤絶し、科学技術が故障したそこでは、変形したキリスト教が囚人たちによって信仰されている。貞節を重んじ、アポカリプスを信じる彼らは、はたから見ると狂気的に映る儀式を行う。

 そんな中、その星に美しい女性がひとり遭難する。事故で家族を失い絶望にくれる彼女は、一週間後に来る定期便でしかそこから出ることはできない。囚人たちは彼女を見て戸惑う。それもそのはずで、女性を見ることすらない環境で信仰を持っているとはいえ、彼らは囚人、罪を犯したものたちなのだ。囚人たちは彼女を、奇異や好色な目つきで見つめ、強姦未遂も犯す。そんな彼女を助けるのは、遭難していた彼女を見つけた医者である。彼もまた囚人であり、暗い過去を持っていたが、彼女に優しく接する。しかし、一方でなんだかわからない薬を彼女に投与する。

 こうした緊張感の中、囚人の一人がダクトで死亡しているのが見つかる。事故として処理されたが、そのすぐ後にまた二人が死亡する。その時に助かった男が犯人とされ拘束されたが、その後に医者の男が殺害される。

 仲間を失った女性は一週間生き延びることはできるのか。そして、一体誰が囚人を殺害したのか。

 

 実際のところ、これで映画一本、十分に作れるのではなかろうか。ただこれはエイリアンシリーズの第3作として作られた映画であって、フィンチャーお得意のミステリではない。しかし、観客だけに事実を提示し、それを知らない登場人物が不幸に巻き込まれる、いわばサスペンスの王道が随所に見られ。何をしでかすかわからないような、狂った囚人たちの持つ、緊張感はそれに彩りを加える。この点で、この映画は実に出来の良いものだと言える。そしてこの映画の持つ新しさは、この映画そのものの存在についての説得力を持つ。その攻めの姿勢は評価に値するはずだ。