映画、映画、映画

いちにちいっぽんえいがをみてなにかをかく(多分できない)ネタバレはあり。そうは言ってもただただ筋書きとか書いていったり細かく解説してとかそういうものではない。観た後に忘れないうちに急いで書くので誤字脱字はたいへん多い。近頃、寝る時間の関係上、映画が見れないこともある。

「ストレンジャー・ザン・パラダイス」

 

 監督:ジム・ジャームッシュ

 1984

 

 どこかちょっと抜けたところがある悪い男二人と、聡明でちょっと変わった悪い女一人、この映画はこの登場人物を中心に進む。

 カットの平均的な長さは1分を超えるのではないだろうか。ほとんどのカットが長回しによって描かれ、中にはカメラが写り込んでいるシーンすらある。こうした撮影法は失敗したときのデメリットが大きく、撮影の予算や効率なんてことを考えてしまうとあまり採用されないスタイルだ。それでも、この映画はそれを採用したのには、これがハリウッド映画ではなく、その外で作られたインディペンデント映画だったからというのがあるだろう。

 ウディ・アレンハル・ハートリーなどがその代表とも言えるかもしれない。こうしたヨーロッパ映画の強い影響を受けた(往往にしてニューヨークが舞台の)映画は、ハリウッドの娯楽映画とはまた違う文脈を持ち、また多くの教養人から指示を受けた。

 

スクリーミン・ジェイ・ホーキンスの音楽を好むハンガリーから来た女と、ニューヨークのボロアパートに住みロクな仕事もぜずにいるいとことその友人の作る微妙な三角関係は、この映画によくある空白の時間、つまり俳優たちが喋ることなくただビールを飲むとか車を運転するとかそういった空間によく現れている。この絶妙な距離感は、言葉にしがたいが、あえて言うならば、強い内向的な意思を持つがどうにも恥ずかしくてそれを隠そうとするが故に生まれる表面的な関係とでも言おうか。この多くの無駄とも言えるシーンこそが何よりも空気を孕む余地であり、大きな意味を持つ。

 New WorldからParadiseへと向かう若者たち、一人はハンガリーへと向かい、一人はニューヨークへと戻り、一人は自由を手にれる。それぞれのパラダイスへ、意図せずとも向かうその姿はコミカルであり、そして感慨深い。この映画には、主人公の一人が、ハンガリー語を話す叔母に対して、英語を話せと言うことが多くある。しかし、それが実際に叔母に会ってしまうと、そんなことを言わなくなるのだ。叔母のハンガリー語を友人に翻訳してやったり、ここに彼の故郷との距離感がある。遠いようで近い、アメリカ人に成り切っているが、自身どこかに故郷への思いがあるのだろう。それはある意味で、いとこの女とは対照的だ。彼女は、ハンガリーにいた頃から変わらぬ彼女らしさを持って、それでいてアメリカに彼女の自由を見つけようとするのだから。

 

 何よりハンガリー人のおばの演技が最高なのだ。どこにでもいるようで、もういなくなってしまったような。昔ながらの移民根性を持った叔母は、孤独と自己防衛の間に生きているのかもしれない。

 特徴をよく捉えた美しい風景と俳優たちの演技ではなくその存在自体、何気無い誰かの発言、全てがこの作品世界をより現実的にそして夢のように作り上げてゆくのだ。