それらしくなく、それっぽく

映画やドラマのネタバレがいっぱいある。誤字脱字もいっぱいある。

シン・エヴァンゲリオン劇場版 反復記号(繰り返しはここまで)

 ネタバレがあります。これは映画をすでに見た人に向けて書かれています。

監督: 鶴巻和哉中山勝一前田真宏

総監督: 庵野秀明

2021年

 

  久しぶりの映画批評ということで、新作映画を扱う。映画館に行くついでに本屋に立ち寄ったところで、邦訳版ではあるが、Dirk Gentlyの原作小説が手に入ったのでそのうちNetflix版のドラマシリーズに関してまた何か書くことがあるかもしれない。

 

 さて、“新劇場版エヴァンゲリオン:序”が公開されたのが2007年である。それから14年?の月日を経てこの“新劇場版“、またあるいは、テレビ版(1995-96)から続くエヴァンゲリオンシリーズが完結したと、ひとまずは言ってもよいだろう。ゆえにこの映画には20年を超える紆余曲折が存在していて、その終幕としての本作は、普遍的に存在するアニメ映画の完結編とは異なった期待や、とてつもなく大きな重荷を抱えていた。日本に生まれて育った私のような人間からしてみればエヴァンゲリオンシリーズを知らずして、また影響を受けずして、映画ファンを続けることは難しかったであろう。今や大学の講義などで真面目にテーマとして取り上げられるほどの作品なのだ。こうした影響はそれだけに留まることはなく、これを見た観客それぞれが、それぞれの文脈を持ってこの映画を見たに違いない。その点に於いて、本当に上手に作られた“特別な“映画だと手放しにでも好意的な評価をせざるを得ない。

 逆に言えば、雑食的な映画ファンが”序”“破”“Q”と続けて見た視聴者がこれを観て、何を感じるのか。作品の外の世界があってこそのエヴァ終幕の作品である可能性は否定できない。

 

 まず、簡単に映像について触れるとすると、アクションシーンにおけるGoproを使ったような動きのあるカメラの位置や内面世界における構図主義的な静のカットなど、ここまで濃い味、または派手にやれば疲れや違和感になるほどではあるが、そこはアニメの利点と言えるか、あるいはバランスの良さか、それほど不自然にはならない。まさに巧みであると言える。そして、毎度のことではあるが対位法的音楽の使い方も効果的であった。

 しかし、これはアクション色の強いアニメーションの持つ難しさというか、ここぞという力の弱さ、飽和的感覚にやはり打ち勝てていない。モノの配置などの持つ意味が語る世界は巧みでも、そこから言葉を超えた強い感覚を作り出すのはやはりこうしたアニメーションには難しいのだろうか?

 それでも私がいいなと思ったのは宙に浮いた列車の車輪部分が重力によってガタンと動くあの瞬間だった。 

 

 次に作品の内容について語りたいが、しかしこの手の作品を作品それだけを切り取って批評するのは大変に難しい。寺山修司監督作品”田園に死す“(1974)をいくつかのテーマに絞って語ることができないように、この作品も語ることは容易ではない。広げた風呂敷の広さというよりも、映画というメディアの持つからくりや芸術様式、また前作までに積み上げたきたものを利用した表現の多さに、見返しながらでないと責任ある解説ができないという方が大きく影響している。

 例えば第三村として登場する生存者たちの生活の拠点が、あり得ないほどに昭和的であったことと、一方で散見される東日本大震災後の仮設住宅に似た景色。こうした舞台設定の混沌は明らかに意図されていただろうが、可能性は思い当たってもこれという理由はいまいちピンと来なかった。

 ただし、終盤の演出からして見ればこの‘舞台設定’という言葉そのものが最も意味あるものになる。その点で言えばまず、アニメのそれらしい背景、例えば”君の名は“(2016年 監督: 新海誠)の現実にかなり寄ったリアリスティックな景色ですら、映画を作るという目的の元、人に手によって作られた背景に過ぎない。しかし、この映画は最終カットで、現実の景色を背景とする。これが映画のために作られた舞台装置からの脱出を意味するのであれば、今作に限らず全てのエヴァンゲリオンシリーズの物語そのものが、このカット(あるいはその少し前)をもってして、(テレビアニメ版、旧劇場版や新劇場版などからなる複数のヴァリエーション[このヴァリエーションの存在もまた現実的である]を持った上で)現実における人の手によって創造された創世記または黙示録と同じ性質を持つもの(創作物)に還元される。綾波レイの発言、示唆される渚カヲルの存在意義と終盤にテレビアニメ版の映像が使われたことも、こうした演出を補強する他、同様のことを物語っている。

 この構図が物語の終わりとして、世界の絶望的な喪失と回復、主人公の苦悩や成長を含めてを急激に相対化してゆき、さらに舞台装置の解体の末にポンと現れる現実世界。主要な登場人物の救済と同時に、見る側がそれぞれ抱える文脈に対して終わりだと納得せざるを得ない状況を自然な流れの中で作った。これが終幕の説得力につながり、かつ題名にある反復記号(繰り返しはここまで)に物語との関係性を持たせた。この演出は、”幕末太陽傳”(1957年 監督: 川島雄三)の幻のエンディングと呼ばれるものへのオマージュを再びただ意味もなく行った訳ではないのは間違いのないことだという考えからも逆算できる。

 

 画家は完成した絵画を後になって修正することができても、映画で同じことをするのは難しい。周囲からそれが求められ、また見る側がそれにしっかりと付いてゆく。これほど多くの人に愛された作品も世界を見回してみてもそれほど存在しない。そんな重荷を背負った作品を完成させることが、いかに難しいことであったか。それは単なる商業的な目的だけではなく、"周囲のやさしさ"があってこそ、なしえたことなのかもしれない。珍しくも、そうした作品の外の事柄がこの映画を名作たらしめる大きな要素のひとつとなっている。

 

 舞台としての世界からそれぞれが、それぞれの居場所へと戻る/向かうのは、残された人類の最後の力によって咲いた花がパッと散るように、そして、季節は移ろう。