それらしくなく、それっぽく

映画やドラマのネタバレがいっぱいある。誤字脱字もいっぱいある。

「スリーピー・ホロウ」

 

 監督:ティム・バートン

 1999年

 

 ティム・バートンの映画は割と見ている方で、実は今作も10年以上前に見ている。テレビなんかで放送していて、それを鑑賞した記憶がある。それも全部とは言わないが、だいたい7割ほど進んだあたりで、なんらかの事情で見終えなくてはならなっかったのだろう。いくつかのシーンは今でも覚えていたが、最後にどうなるかなんてことは覚えていなかった。

 銀残しを彷彿とさせるような画面全体の色調は、1799年という時代を、古写真の世界として、また、原始的な闇の残る世界としてよく表している。物語自体は、ファンタジーの方面から語られるディクスン・カー推理小説のようである。

 舞台は、まるでホーソーンの「緋文字」の舞台を思わせるような教会の強い保守的な街で、開拓されて間もないアメリカの野性味とヨーロッパの歴史の影がいまだに残っている。そんな中に現れるクリストファー・ウォーケン扮するホースマンは極めて異様に、そして悪魔的に映る。

 カーの小説にあるような、理性や合理性とそれを超えた存在の対比はよくなされていて、これを1999年というITが発展する中に映画としてテーマに持ってくることは非常に効果的に感じられる。

 

 我々は今2000年代を生き、そして日頃からスマートフォンやコンピューターといった機器に慣れ親しんでいる。わたしは、こうした作品に出会うとよく思うのだ。『この世界に、魔法や怪物はもういないのだろうか』と。

 この映画では、1800年代へと移り変わるちょうどその頃が描かれる。そして、主人公は理性でもって、伝説の幽霊を闇へと再び葬ってしまう。こうして、新たな世紀は、1つの超越的な存在を失ってしまう。これはまさに我々が生きるこの世界で起きたことである。

 写真の発明によって、馬がいかにして走るかが正確にわかるようになったり、宇宙ロケットの発明によって火星に宇宙人がいないことが証明されることで、この世界からは、今この瞬間にも暗闇は照らされて消えていっている。昔はそこかしこに暗闇があり、そこにはあらゆる世界が広がっていた。一つ目の巨人のいる島や火の鳥が住むとされた山、神が生まれた泉、どれも今では、歴史的事実以外に存在しない。

 形骸化した儀式や書物や語りによって伝わってきた歴史がそれらの存在を指し示すが、今ここに、この場所には何もいない。そして、私たちはそれに一抹の寂しさを覚える一方で、暗闇の恐怖から解放され安心を感じる。

 コンピューターの計算によって多くのものが確かなものになり、不確かさはまるでなかったかのように扱われる。そんな世界で我々はこの先、永遠とも言えるような長い時間を過ごしてゆかなかればならない。そこにこそ、信仰や芸術の居場所があるのかもしれない。ムーサたちは私たちを今もどこかで見つめているに違いない。人間たちは次に何をするのだろうか、と。

 

 前回の項でジャン=ピエール・ジュネを取り上げた。奇しくもティム・バートンもまた、メリエス的映画の現代の巨匠といえよう。