映画、映画、映画

いちにちいっぽんえいがをみてなにかをかく(多分できない)ネタバレはあり。そうは言ってもただただ筋書きとか書いていったり細かく解説してとかそういうものではない。観た後に忘れないうちに急いで書くので誤字脱字はたいへん多い。近頃、寝る時間の関係上、映画が見れないこともある。

「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」

 

 監督:アン・リー

 2012年

 

 事実と真実の違いということが言われることがある。事実が物質的なもので、真実は精神的なものであると言えるだろうか。

 この映画にはトリックがある。それが、恐らくは貨物船の沈没のその最後の瞬間かもしれない。

 物語は、小説家が大人になった主人公、パイからその冒険譚を聞くという体裁をとる。そこはカナダのとある町で、我々のよく知った世界(都会)が広がっている。CGもなければ、動物もいない。

 それが、一度回想へと目を向けると、植民地であった頃のインドが現れる。それはもちろん、実際の街ではなく多くはセットであったりCGであったりする。ここで我々は最初の門をくぐることとなる。

 鮮やかな色彩と人間の野性味の残る生活、様々な信仰が身近にあり、主人公パイはそんな混沌とした世界で成長する。彼が出会ったのはおそらく神への猜疑心ではなかろうか。それは、父親の影響かもしれないし、またはいくつもの宗教があってそれぞれが異なる形で存在することの矛盾に気づいてしまったからなのかもしれない。

 そんな彼は、いくつかの宗教を試す、それはどこかにきっといるはずの神を探すことかもしれない。ただ、聖書にもあるように、神を試してはいけないのである。それがあったからゆえに彼は、受難の日々を過ごすこととなったのではないか。全てを失い、海を漂流する日々を。

 彼の受難は、乗っていた日本の貨物船の沈没から始まる。もしかすると、それ以前から始まっていたのかもしれないが。とにかく、彼はそこで家族を失い、その旅が始まるのだ。

 この映画は全て、最後の15分ほどのためにあると言って良いだろう。どれが何に対応するメタファーであるかは、ここで語るには多すぎるように思うし、それは映画を見ながら楽しむ類のものに違いない。ただ、最後に現実に戻ったときにのシーンが必要であったかどうかは疑問であるとだけ言っておく。

 

 今を生きる我々にとって、信仰とはいかなるものなのであろうか。そしてどのように活用するべきなのか。この映画はそうしたことを考えさせる。

 最近、とある有名な新興宗教の幹部やそのリーダーが死刑に処された。我が国における宗教事情は彼らの起こした犯罪によって、大きく変わったのでないだろうか。

 私は、自分をよくポストオウム世代だと言う。それは、宗教の持つ危険な一面を見て育った、そしてそれを見た大人によって育てられた世代という意味を持つ。

 こうした我々の世代は、特別な状況を除いて、多くの場合、敬虔であるということに対して、一種の嫌悪感や、侮蔑の感情を抱く。例えば、宗教など必要ないという論調が多く見られる点や、宗教は弱いもののためにあるとか、時代遅れの人々のためだとか、こうした意見はインターネットを中心によく見られるのでないだろうか。それはもしかすると、新興宗教、そして宗教そのものへの不信感からくるものなのではないかと私は思う。

 私自身、信仰を持つ人間ではない。だが、ここまで生きてくるのにそれが必要だった人間ではあるに違いない。それは多くの人間に当てはまるのではないだろうか、特に心の余裕のない人間たちに。この映画で描かれた神に関するテーマは、この苦痛に満ちた世界をどう生きるかを示してくれている。我々は、様々な悲しみや苦しみに出会う。そして、時にはそれに負けてしまうことがある。どこにも逃げることができない、袋小路。我々は常にそこにいるのだ。何かあれば故郷に戻って来ないさいという言葉がよくドラマなんかでは見られるが、この今を生きる我々に帰る故郷などあるのだろうか。

 我々の中には、自立といった建前や、伝統的な根性論といったものによって孤独に生きることを余儀無くされている、そんな人がいる。それは家にいても、どこにいても常に心の距離があるという状況を生む。そんな人間はどこに逃げるべきなのだろうか。少なくとも、それが死であってはならない、そう私は思う。

 この映画でパイが行ったことは消して恥ずべきことではない。弱いということでもない。生きるために、必要だったのだ。しかし、もし、彼が神を信じようともせずに漂流を続けていたらどうなっていただろうか。想像に難くはない。

 トラは最後にジャングルに消えてゆく、振り返ってくれなかったとパイは悲しむが、それでいいのだ。トラと友達になることは良いことではない。