それらしくなく、それっぽく

映画やドラマのネタバレがいっぱいある。誤字脱字もいっぱいある。

「アランフェスの麗しき日々」

 

 監督:ヴィム・ヴェンダース

 2016年

 

 この映画ではアクションは最小限に抑えられている。しかし、それでも十分なほどに俳優の演技は叙情豊かである。そもそも、この映画は退屈なものだと言い切っていいだろう。それもネガティヴな領域での退屈さだ。そんな映画が作品として成立するのは言葉選びの美しさと俳優たちの力量に他ならない。

 実に小説的、またはミニマルな会話劇と言える形のこの作品は、(筆者はフランス語がそれほどよくわからないので、それが翻訳によって生まれたものなのかは定かではないが)度々会話が成立していないようなつかみどころのない比喩表現が続く。

 それは間違いなく、この作品、つまり作中の作家によって書かれるこの作品自体が何らかの比喩であることの表れで、この時から切り離された『夏』そのものが、エデンの園や神々が住むオリンポスのような常世の国を連想させる。年齢の違う、どうやら生きている時代すら違うように思えるこの二人は、一体誰なのか。そこにあるリンゴの意味とは。こうした様々な問いの確たる答えが得られぬままに映画は終わる。それは作家から我々に与えられた、考える余地に他ならない。

 映画を見終わった後に訪れる、たったいま見たあれは一体何だったのかと考える瞬間こそが、映画の、ましてや芸術の最も貴重な瞬間だろう。

 

 ウィム・ヴェンダースといえば前作の「誰のせいでもない」は作家が犯した罪とどう向き合うかを、繊細に、そしてサスペンスらしく危うげに描いて見せた作品だ。この映画もまた主人公は作家である。

 作家であるということははどういうことなのか。今作のように誰もいない自宅の庭に想像上の人間を置き、内なる深い世界との対話によって物語を進めてゆく作家、一方では前作のように実際にあったことを当人の許可もなく、あくまでも想像上の出来事として描く作家。彼らは、確かに実際は、自らの精神によって文字を生み出している。しかし、その動機は大きく異なるのではないか。小説の種として見逃せない事故と不幸を起こした作家とむしろ何もないところから何かを生み出す作家。一方にはスランプの焦りがあり、一方には自然に囲まれた余裕のある生活がある。こうした対比は、作品を超えた対比としてこの両方の映画そのものの質をよく表している。

 

 この映画は、もしかすると詩的であるといえるかもしれない。詩というものは繰り返し触れ、幾度となく出会いを重ねたのち、ふとしたきっかけで理解できものだ。一方で映画は戻ることのできない流動性のあるものだ。一見すると両者は相性が悪いように見えるが、この世には映画でしか語れない詩が存在しているのだ。