それらしくなく、それっぽく

映画やドラマのネタバレがいっぱいある。誤字脱字もいっぱいある。

「髪結いの亭主」

 

 監督:パトリス・ルコント

 1990年

 

 最高ということは、それからは凋落するしかないのである。髪結いの女は、それに耐えきれなかったのだ。

 色調の優しさ、愛、エロティシズム。そして、この映画は、実に小説的な映画である。全ては主人公の回想であり、それはまた、彼のフェティシズムの遍歴でもある。こうした性描写はラース・フォン・トリアー監督の「ニンフォマニアック」にもある。それと同じように、この映画は、今の彼はどうしてその偏愛を抱くようになったのかということから始まる。

 フェデリコ・フェリーニの映画に出てくるような太った女の濃厚で肉体的な魅力。将来の夢を髪結いの亭主になると答え、父親から叩かれた彼は、髪結いとの関係をいけないこととして、背徳的なことと感じることとなったのかもしれない。

 彼の偏愛ぶりはコミカルに描かれてはいるが、実に変態的で、またかなりエロチックに描かれる。ジャン・ロシュフォールの持つ錆び付いた黄金のような魅力に我々は共感を抱き、彼の行為は全て愛のためと理解する。ついに若く美しい髪結いの女と結婚するが、しかし、それは本当の愛なのだろうか。

 映画の終盤にある客が、何かを失ったら次の何かへと向かうだけと言う。それは、主人公の幼少期に出会った、あの太った髪結いから、今の妻、そしてその次があるようなことを匂わせる。そしてまた、こうした主人公の動機に危うさを感じるだろう。彼は子供を欲しがらなかったが、もしかすると、妻は子供が欲しかったのかもしれない。しかし、それで愛が壊れてしまうことを恐れたのか。とすると、この関係は、もしかすると破滅を迎える運命だったのかもしれない。

 我々はこれを通して愛とは何かを考えざるを得ない。どんな悲劇的な結末が待っていようとも、彼らが過ごした10年間が色褪せることはなく、そしてそこにあった幸福が嘘になることはない。確かにそこには愛があった。それも非常に大きな。究極的な愛の形とは、強いフェティシズムや、性的なものなのか、それとも孤独を癒し、ともに生きることなのか。それは誰にも分からないことだろう。人類皆それぞれにそれぞれの形があり、それぞれの幸福があるからだ。それが破滅的であろうと、悲劇的であろうと、また退屈なものであろうと、全ては運命によることなのだろう。

 

 この映画の大きな魅力とは、その画面の美しさかもしれない。統一された色調の範囲であらゆる色がそこにはある。最後まで描かれることのなかった天井はどういう風になっていたのだろうか。

 こうした色の魅力は、わかりやすい例をあげれば、ウェス・アンダーソン監督やニコラス・ウェンディング・レフン監督の作品に見られるかもしれない。(当の筆者自身、色覚に異常はあっても、こうした色の感覚くらいはある)色というのは映画で非常に重要な要素で、その映画の空気を決める。例えばこの映画は、小説的だと書いたが、例えばセリフや行動が文書の内容であれば、色調とは文体であると言える。この映画はその点で非常に優れたものであると言えるだろう。

「ストレンジャー・ザン・パラダイス」

 

 監督:ジム・ジャームッシュ

 1984

 

 どこかちょっと抜けたところがある悪い男二人と、聡明でちょっと変わった悪い女一人、この映画はこの登場人物を中心に進む。

 カットの平均的な長さは1分を超えるのではないだろうか。ほとんどのカットが長回しによって描かれ、中にはカメラが写り込んでいるシーンすらある。こうした撮影法は失敗したときのデメリットが大きく、撮影の予算や効率なんてことを考えてしまうとあまり採用されないスタイルだ。それでも、この映画はそれを採用したのには、これがハリウッド映画ではなく、その外で作られたインディペンデント映画だったからというのがあるだろう。

 ウディ・アレンハル・ハートリーなどがその代表とも言えるかもしれない。こうしたヨーロッパ映画の強い影響を受けた(往往にしてニューヨークが舞台の)映画は、ハリウッドの娯楽映画とはまた違う文脈を持ち、また多くの教養人から指示を受けた。

 

スクリーミン・ジェイ・ホーキンスの音楽を好むハンガリーから来た女と、ニューヨークのボロアパートに住みロクな仕事もぜずにいるいとことその友人の作る微妙な三角関係は、この映画によくある空白の時間、つまり俳優たちが喋ることなくただビールを飲むとか車を運転するとかそういった空間によく現れている。この絶妙な距離感は、言葉にしがたいが、あえて言うならば、強い内向的な意思を持つがどうにも恥ずかしくてそれを隠そうとするが故に生まれる表面的な関係とでも言おうか。この多くの無駄とも言えるシーンこそが何よりも空気を孕む余地であり、大きな意味を持つ。

 New WorldからParadiseへと向かう若者たち、一人はハンガリーへと向かい、一人はニューヨークへと戻り、一人は自由を手にれる。それぞれのパラダイスへ、意図せずとも向かうその姿はコミカルであり、そして感慨深い。この映画には、主人公の一人が、ハンガリー語を話す叔母に対して、英語を話せと言うことが多くある。しかし、それが実際に叔母に会ってしまうと、そんなことを言わなくなるのだ。叔母のハンガリー語を友人に翻訳してやったり、ここに彼の故郷との距離感がある。遠いようで近い、アメリカ人に成り切っているが、自身どこかに故郷への思いがあるのだろう。それはある意味で、いとこの女とは対照的だ。彼女は、ハンガリーにいた頃から変わらぬ彼女らしさを持って、それでいてアメリカに彼女の自由を見つけようとするのだから。

 

 何よりハンガリー人のおばの演技が最高なのだ。どこにでもいるようで、もういなくなってしまったような。昔ながらの移民根性を持った叔母は、孤独と自己防衛の間に生きているのかもしれない。

 特徴をよく捉えた美しい風景と俳優たちの演技ではなくその存在自体、何気無い誰かの発言、全てがこの作品世界をより現実的にそして夢のように作り上げてゆくのだ。

「ストリート・オブ・ファイヤー」

 

 監督:ウォルター・ヒル

 1984

 

 これは、限りなくポップミュージック寄りのロックミュージックだ。そして、またこの映画は、作られるべくして作られたB級映画とも言えるかもしれない。

 例えば、「ジーザス・クライスト・スーパースター」、「ファントム・オブ・パラダイス」や「ロッキー・ホラー・(ピクチャー・)ショウ」が同様にロックやファンクなどのポピュラーミュージックを扱ったミュージカル映画に当たる。そして、本作はその系譜にある作品なのだ。

 ロックミュージックやカウンターカルチャーが持っていたそれまでの既成の文化に対する態度は、映画においては、往々にしてこうしたいわゆるカルト映画という形で現れる。例えば、「ファントム・オブ・パラダイス」ではファントムオブジオペラなどのミュージカルへのオマージュがあり、「ロッキー・ホラー・ショウ」では、それまであったSF映画や恋愛映画のあり方に見事に脱構築とも言えるような変化を加えた。今作もまた、ハリウッド的物語に一種の冗談めいた態度をとっている。

 物語はまるでクリント・イーストウッド主演の西部劇のような体裁をとる。どこかから現れた素性のしれない男が女を救い、最後に敵の親玉と一対一で戦う。主人公の冷めた態度や、戦いの腕はまさにそうだと言える。

 しかし、舞台は退廃的なロックンロールの街であり、そこには80年代当時の特徴的な空気が流れている。それだけではなく、特徴的なキャラクターやそのファションがどうにも夢の世界のような印象を与える。そこには、よくある物語を持った滅多にない映画があるのだ。

 

 80年代はそれまで続いてきたロックミュージックにとって受難の年だったと言える。プログレッシヴロックを例にとってみても、ピンクフロイドのアルバム「ザ・ウォール」の持つそれまでにないロックらしいキャッチーなテイストや、イエスの「ロンリー・ハート90125」、キングクリムゾンのジャズからの乖離、ジェネシスのポップ化、プログレッシヴロックの名プレイヤーを集めて始めたエイジアという限りなくポップ寄りなバンド。これだけ見ても、商業的な成功のためにどれだけの変化が求められていたのかが想像に難くないだろう。それはハードロックと言われるジャンルにおいても変わらない。

 それではロックはどうなってしまっていたのか。それはこの映画にも、少し見て取れるのかもしれない。ネオ・ロカビリーの台頭やロックのポップ化がギャングと善良な市民の対比に見てとれる。実際そんな対立があったかは置いておいて、そこにはロックミュージックの黄金時代の後継争いという複雑な背景があった。

 1970年代への変わり目に、ビートルズが最後のアルバム「アビー・ロード」を発表し

、キングクリムゾンが「クリムゾン・キングの宮殿」を発表する。1960年代後半から生まれた新たな潮流。ヒッピー文化と結びついたサイケデリックな音楽や、ビートジェネレーションに後押しされたドアーズやボブディランが隆盛を迎え、それが融合してゆくのが70年代だったのかもしれない。それまであった、生真面目な音楽はどこかへ行ってしまい狂乱の時代を迎えることとなる。ブルースに裏ずけされたギタープレイやひずみの強い音色は、それが衰退するまでずっと続き、いまでもその影響は大きい。観客はLSDに酔う客は踊り狂い、大きな声を上げる。

 80年代というのはそんな時代の終わりでもあった。ベトナム戦争が過去のものとなり、人々は元の真面目な生活を再び送ろうとする。

 ただ、過去の残していったものは、想像以上に重く。多くの人間が時代の取り残された。また、若い世代の中にはそんな新たな時代に適応できないでいるものもいた。そこでポピュラーミュージックは様々な聴衆によって多くの分岐を得るのであった。

「スリーピー・ホロウ」

 

 監督:ティム・バートン

 1999年

 

 ティム・バートンの映画は割と見ている方で、実は今作も10年以上前に見ている。テレビなんかで放送していて、それを鑑賞した記憶がある。それも全部とは言わないが、だいたい7割ほど進んだあたりで、なんらかの事情で見終えなくてはならなっかったのだろう。いくつかのシーンは今でも覚えていたが、最後にどうなるかなんてことは覚えていなかった。

 銀残しを彷彿とさせるような画面全体の色調は、1799年という時代を、古写真の世界として、また、原始的な闇の残る世界としてよく表している。物語自体は、ファンタジーの方面から語られるディクスン・カー推理小説のようである。

 舞台は、まるでホーソーンの「緋文字」の舞台を思わせるような教会の強い保守的な街で、開拓されて間もないアメリカの野性味とヨーロッパの歴史の影がいまだに残っている。そんな中に現れるクリストファー・ウォーケン扮するホースマンは極めて異様に、そして悪魔的に映る。

 カーの小説にあるような、理性や合理性とそれを超えた存在の対比はよくなされていて、これを1999年というITが発展する中に映画としてテーマに持ってくることは非常に効果的に感じられる。

 

 我々は今2000年代を生き、そして日頃からスマートフォンやコンピューターといった機器に慣れ親しんでいる。わたしは、こうした作品に出会うとよく思うのだ。『この世界に、魔法や怪物はもういないのだろうか』と。

 この映画では、1800年代へと移り変わるちょうどその頃が描かれる。そして、主人公は理性でもって、伝説の幽霊を闇へと再び葬ってしまう。こうして、新たな世紀は、1つの超越的な存在を失ってしまう。これはまさに我々が生きるこの世界で起きたことである。

 写真の発明によって、馬がいかにして走るかが正確にわかるようになったり、宇宙ロケットの発明によって火星に宇宙人がいないことが証明されることで、この世界からは、今この瞬間にも暗闇は照らされて消えていっている。昔はそこかしこに暗闇があり、そこにはあらゆる世界が広がっていた。一つ目の巨人のいる島や火の鳥が住むとされた山、神が生まれた泉、どれも今では、歴史的事実以外に存在しない。

 形骸化した儀式や書物や語りによって伝わってきた歴史がそれらの存在を指し示すが、今ここに、この場所には何もいない。そして、私たちはそれに一抹の寂しさを覚える一方で、暗闇の恐怖から解放され安心を感じる。

 コンピューターの計算によって多くのものが確かなものになり、不確かさはまるでなかったかのように扱われる。そんな世界で我々はこの先、永遠とも言えるような長い時間を過ごしてゆかなかればならない。そこにこそ、信仰や芸術の居場所があるのかもしれない。ムーサたちは私たちを今もどこかで見つめているに違いない。人間たちは次に何をするのだろうか、と。

 

 前回の項でジャン=ピエール・ジュネを取り上げた。奇しくもティム・バートンもまた、メリエス的映画の現代の巨匠といえよう。

「ロスト・チルドレン」

 

 監督:ジャン=ピエール・ジュネ

 1995年

 

 この映画は、「デリカテッセン」、「アメリ」の監督で知られるジャン=ピエール・ジュネ監督の長編2作目に当たる。「デリカテッセン」という映画で表現された、荒廃したディストピアはこの映画でもまた能く描かれている。さらには、「ロング・エンゲージメント」といったよりリアリスティックな作品においても見られる、物へのフェティシズムは強烈にそして最も大掛かりに描かれる。

 

 映画を見るときに人は、意識高い系とか教養主義的などという言葉を使ったり、芸術性が高いなんて言葉を使ったりすることがある。すると一方には、お馬鹿なとか、大衆的ななんて言葉がある。しかし、このような分類は間違っていることがこの作品で知ることができる。そうした一見相反するものは同時に存在でき、かつ、それを満たした映画はしばしば名作として、高く評価される。これは忘れがちなことだが、実に基本的なことだ。

 映画というのは大衆向けのものでそれが高度な芸術性を持つことはないとか、映画には絵画や音楽のように優れた手本がなく、古典が成立し得ないとか、そんなことがあるかもしれない。しかし、この映画は、あくまでも映画の伝統に則り、また現代の技術を存分に駆使した新しい作品でもあり、世界観の表現は極めて完成度も高く、物語もエンターテインメント性に富む。

 この映画は、ジョルジュ・メリエスの流れを汲む、全てが作り物で仕掛けだらけの映画である。そして、またサーカスやフリークといった見世物、つまり近代における大衆娯楽の要素を持つ。これらの映画の持つ歴史的な背景を鑑みて、ある意味では古典主義なんて言い方もできるのかもしれない。日本では寺山修司なんかか似たことをやっている。

 それでも、この映画が古臭く時代遅れに見えないのは、このエンターテインメントによるものであり、物語の純粋な面白さと登場する人物や物によって生み出される世界そのものの力である。

 少女が勇敢な男とともに、誘拐された弟を探し出すというテーマは、例えば「ラビリンス /魔王の迷宮」(1986)や「バロン」(1989)といった映画に共通点が見出せる。おとぎ話としての肝を掴んだものとも言えるものとなっている。そこには数々の困難とその解決、悪い敵と正義の心との戦いがある。

 しかし、これが子供向け映画ではないのはその世界に要因がある。工業的でグロテスクな風景は、もしかすると大人には住み心地の良い街に見えるのかもしれないが、この映画の登場人物の視点ではやはり汚く、冷たい印象を受ける。おかしな宗教者たちやフリークたちは、都市そのものを表しているようだ。

 ここには、映画=機械の目という構図がある。それは映画がどういうものか、例えば見せようとするものを意図的に切り取った、映画の中では禁欲と結びつけられはしたが、現実では真逆の映画の特性が語られているのかもしれない。

 

 

 

「山猫」

 

 監督:ルキノ・ヴィスコンティ

 1963年

 

 この国に住む我々は多くの場合、このイタリア統一という出来事を歴史的な事件として学ぶこととなる。教科書に描かれた赤シャツの兵士たちやガリバルディの肖像、そしてイタリア半島の地図を通して、そこで何が起こったかを知る。しかし、この映画は歴史ドラマとしてではなく、シチリアに住む貴族と彼らを取り巻く世界の変化という、あくまでも人間のドラマとしてイタリア統一を描く。そうして我々は、歴史の教科書にある事件にあった、忘れ去られようとしている事実に目を向けることとなるのだ。

 

 この映画は、貴族社会の持つ虚栄や偽りを見事に描いて見せている。耽美的とも言えるであろう映像と、現実味の無い人間たちはその時代に貴族社会が直面した危機や変化をより現実味のあるものへと変えた。そして我々はまた、現在も続く上流の生活へと思いを馳せる。

 本来貴族階級は王や伝統に与えられた特権、つまり人間によって作られたもので、始まりは統治を円滑に進めるための政治的な機構であったり、地元の権力者であった。彼らはその長い生活の中で富を蓄え、権力を確固たるものとして、時には平民たちとの違いを顕示させて見せた。

 こう言えばいかにも前時代的に聞こえるかもしれないが、映画で描かれる19世紀のシチリア島であっても、彼らはあたかも王であるかのような力を民に行使する。そして、この映画は、そのシステムの終焉の時を描いている。

 ではなぜ、それは終焉を迎えたのか。歴史的背景を考えれば、フランス革命に代表されるような個々の人間が持つ力への再評価や、裕福な一般市民の台頭が原因とも言える。しかし、それは結局のところ、貴族が持つ魔力が失われたことに違いはない。つまり、彼らがそれまで誇ってきた、絶対的な王や王家から与えられた特権的な地主としての権力や知識や芸術の囲い込みに限界がきていたのだ。

 多くのものに値札がつけられ、大きな商売を行うようになった市民がそれらを手にれることで、それまで魔法のように見えていたものがただのものに成り下がる。市民は貴族であっても所詮はただの人間であることを意識せざるを得なくなり、それまで憧憬を抱いてきた何かが消えてしまう。歴史や伝統という力にしか拠り所はなく、それは富や権力とは必ずしも結びつかない。ここに実のない豊かさが生まれてしまう。

 そして、それまで一般市民として生きてきたものが金を得ることで貴族のような暮らしを始め、貴族と結婚することにもなる。洗練された文化としてそれまで、マナーや暗黙のルールがあった世界にそれを知らぬ新たな者たちがやってきたのだ。伝統はますます形だけのものとなり、ついにはそれまであった秩序や歴史も曖昧なものとなる。金と伝統の入り乱れる混沌を呈するのだ。

 

 当たり前なことかもしれないが、この映画で描かれた世界は今の世の中に直接つながる。それは、我々のいまいる社会にある豊かさの持つ欺瞞もよく指摘しうる。もしかすると、ヴィスコンティ自身、映画業界に身を置くようになってある種の貴族的な社会を見てきたに違いない。

 例えば、テレビの世界に、〈一般人〉と〈芸能人〉なる対比があるところを見れば、今も貴族的社会は残っていることがわかるだろう。そこには〈芸能人〉なる存在があたかも〈一般人〉よりも優れているかのような空気がないだろうか。そして、我々はそんな〈芸能人〉の生活へ憧れを抱く。社会的な地位もあり富めるたちだけが利用できるゴルフクラブや、会員制の飲食店、どこを見ても貴族的な閉鎖的空間はみつけられる。そこにはまだ魔法が存在しているようにも見える。

 しかし、それは貴族的であるにすぎず、むしろ金によって築かれた、実だけの、蓋のない無限の逸脱とも見える空間とも言える。いまだに、貴族の地位や権力を手に入れようと子供を教育しようとする親もいるのではないだろうか。英国では今だにナイトの称号が与えられ、爵位のあるものだけの世界が存在する。それまでの流れとは逆に富めるものは権威を欲するようになる。持っていないのは、あとはそれだけなのだから。

 一方で、良き家柄だという自尊心が先行してどうにか裕福になってもらおうと教育する親もいることだろう。この交差的関係と、それが産む劣等感がどれほど人間的で、例えば死という大きな存在の前では儚いものか。

 

「ダンケルク」

 

 監督:クリストファー・ノーラン

 2017年

 

 ダンケルクの戦いと聞いて、あああれかと思ったのは、アメリカの映画「ミニヴァー夫人」のシーンだった。この映画はダンケルクの戦いから2年後である1942年に公開され、文芸映画として、またプロパガンダ映画として広く受け入れられた。この戦いがいかに英国、そして米国で重要なものであったかは想像に難くない。

 

 この映画は、スピットファイア機、一般のボート、そして撤退する兵という3つの視点から描かれる。そして映画の始めには、それぞれがダンケルクイングランドとの間を移動するのにかかる時間が提示される。そこでは、船で1日、飛行機で半日、そしてダンケルクの桟橋からは数日と、彼らの置かれた絶望的な状況を伝える。そしてそれだけでなく、映画が終盤のある一点に時間の基準を持ってきていることを説明することにもなるのだ。

 この映画は、それぞれの視点、シーンが同じ時間で描かれているわけではない。例えば、帰還する兵の視点では夜であっても、戦闘機パイロットの視点からすれば昼間なのである。それは、この「ダンケルク」という映画のの決定的な瞬間、メーンで描かれる主人公が助かった瞬間に初めて一致する。

 この演出は非常に効果が高かった。それは、別の視点を描くことで未来(その視点では現在)を描くとこで、我々にサスペンスを提示して見せた。彼らの過酷な運命を先に描き、不吉な未来へと向かって進んでゆく主人公たちの間違った選択とも見える現在を危ういものとした。それには緊張感と好奇心を覚える。それは、構造的な説得力もあってか、自然に受け入れられた。例えば、これを無理に行おうとすると、緊張感の演出のためだけに作られた視点を使うことになり、表面的で陳腐な演出に頼らざるを得ない。しかし、この映画ではそれを斬新とも言える発想で巧みに描いて見せた。

 では、これは戦争映画史に残る傑作かと問われれば疑問を抱かずにはいられない。お金のかかった、臨場感のある映像、素晴らしい構造は見事と言わざるを得ない。だが、そういった要素を取り除いた時に残る、純粋な物語自体はどうだろうか?

 私はその点に関して、あまり肯定的な印象は受けなかった。救出に向かう船で息を引き取った若者のとってつけたような最後の言葉、燃料切れになりながらもメッサーシュミットを一機撃墜するスピットファイア、水上にランディングしたパイロットの危機と救出など、お粗末とも言えるようなエンターテインメントが点在している。緊張感のための露骨なシーンに説得力はなく、そんな意思が伺えて興ざめを起こしてしまう。幕の内側を覗いてしまったような気分にさせる演出は失敗と言わざるを得ない。惜しいの一言である。

 

 数多くの死にゆく若者たちを見て、良い戦争映画は悪い戦争を描くものだと思った。