それらしくなく、それっぽく

映画やドラマのネタバレがいっぱいある。誤字脱字もいっぱいある。

「レディ・バード」

 

 監督:グレタ・ガーウィグ

 2017年

 

 熱心なインディペンデント映画ファンならば、この作品の持つ硬派な映画スタイルを否定的に捉えることがあるかも知れない。しかし、それはこの映画の建築的な部分が持つ美しさでもあるのだ。

 同性同士の友情、親子の関係、恋愛、未来、街、そして、神。この映画は93分と確かに短くはあるが、そこで語られることは非常に豊かで複雑なものだ。それが出来たのも、この多くの要素が相互に関係した1つの出来事として描かれる故だろう。18歳を迎えるレディ・バードの成長の物語として。

 その中でも、もっとも重要なものとして描かれるのは母と娘の関係である。ラストシーンではその母へのメッセージが主人公の口から語られる。憧れの街へやって来て、そして母親の支配から逃れられてか、街に着いて早々に、急性アルコール中毒で倒れ病院で目を覚ます。まるでずっと泣いていたかのようにボロボロになった化粧、ふと立ち寄った教会の賛美歌が、故郷を思わせ、そして自分の命が与えられたものであるということを意識させる。少し前までの彼女は、妊娠中絶の講演に来た女性に対して、あなたの母親が中絶していればこんなくだらない講演がなくて済んだと言ってしまえるような、母子の普遍的な関係に対する距離感や不寛容を持っていた。しかしそれも、彼女自身が困難の果ての子供だと知ることで、どこか自分の問題として理解できるようになったのだろうか。自分の命が与えられたものだとはっきりと意識するようになったのだ。それは両親からであり、また、神からでもある。クリスティン”レディバード”・マクファーレンは、クリスティン・マクファーレンとしての自分を受け入れる。

 

 この名前を捨てる行為には「フランシス・ハ」とのちょっとした共通点を見出せないだろうか。その点からも私はこの映画は「フランシス・ハ」の前日譚に当たる物語のように思えてならない。「レディ・バード」がグレタ・ガーウィグの初監督作品であるから、この映画の監督はもちろん別人である。しかし、主演はガーウィグであり、脚本も共同で書いている。

 ニューヨークに住む、子供向けダンス教室の教師である主人公は名前をフランシス・ハラデイという。そんな彼女は、一緒に住む女友達に依存気味で、仕事も行き詰まりを迎えている。 そんなある時、女友達と別々に住むこととなる。そのどうしようもない寂しさを男や新しい女友達、そして家族に求める。そこではまた、貧富の差や将来への不安も描かれている。クリスマスを故郷の街で過ごしてみたり、パリに行ってみたり、振付師として舞台を演出してみたり、憂鬱な日々からの再起がその映画では描かれている。そして最後に新たに住むアパートのネームプレートが短かったために名前がフランシス・ハになってしまう。

 そんな彼女の故郷の街こそが、サクラメントなのだ。「レディ・バード」はサクラメントのクリスマスに関しての記述から始まる。同棲との友情を大切にする態度や、上流階級に溶け込もうと背伸びする姿はレディバードと重なる。レディバードが大学を出てどうなったか、ということを想像してしまうと、どこかまるで自分のよく知る誰かの子供時代でも見ているような気持ちになる。

 こうした別の映画との関係から言えば、先日ここにも書いた「20センチュリー・ウーマン」なんかにも良く似た状況が描かれている。エル・ファニング演ずる少女の性体験、そして心理カウンセラーの母親との関係は、意図された類似であるに違いない。もしくは、良いものを借りたと言おうか。

 この映画の持つ真摯な重みは、もしかするとグレタ・ガーウィグ彼女の作家としての人生を賭けたその姿勢によるところがあるのではないかと思ってしまう。

 

 私は補欠合格で大学に入学した。そして、高校の成績は下から数えたほうがずっと早かった。住むのは高級住宅地で、周りには豪邸が立ち並ぶが、我が家は狭く決して裕福ではない。いつも体面を気にして、真面目であることを強いてきた両親。友人たちとの間のちょっとした格差。私はそんな中で育ってきた。漫画もゲームもあまり買ってもらえずに、増えるのは図鑑や長編小説ばかりだった。私はこの映画に共感を禁じ得なかった。母親は、私が家を出ることをいつも妨げようとする。それは、レディバードの母親も同じだった。おそらく彼女も、実の一人娘に家にいてほしいと思っていたに違いない。そしてそれは、肥大した欲求として娘を縛り始める。父親は優しさという、ある種の無関心を貫き、兄は品行方正に欠けた生活を送ろうとする。そんな家族の瓦解はロバート・レッドフォードの映画「普通の人々」でも感じられた。あの豊かさの持つ影に近いのかもしれない。

 私には、3,11があった。そしてレディバードには、9,11があった。私もまた、強く感じたものだった。「世間ではこんな風に大騒ぎでいるけれど、それで私自身が抱える問題が少しも楽になることはなく。ちっぽけなものだとも感じられもしなかった」

 人の悩みや苦しみは、相対的なものではない。だから誰にも理解できないと思ってしまう。この映画の中には度々、死や自殺、鬱や自傷といった暗い影が現れる。そこにはもちろんメメント・モリとしての役割もあるかもしれない。しかし、父のうつ病や神父が抱える信仰の問題、何度も現れる9,11に関する事柄は、この物語において、この死や苦悩といった深刻な暗い影として、ただ社会が抱える問題や若いレディバードとの対比以上の何かがあるように思える。コメディータッチの持つ明るさの中の暗がりほど、恐ろしく、そして生々しく感じるものもないのではないだろうか。

 私たちの与えられた命は、多くの不幸や悲しみと出会う。そして、それは神の不在を感じさせるほどのものかもしれない。しかし、確かに両親はいて、生まれ育った街も存在する。その中を生きる私たちは確かに何者かに与えられた命を生きているのだ。

 

 18歳の誕生日に街のコンビニでタバコとアダルト雑誌を買う。それはどんな子供達にとっても、かけがえのない経験だと思う。たったそれだけでちょっと大人になった気分になれた。

「エリザのために」

 

 監督:クリスティアン・ムンジウ

 2016年

 

 映画はある石が窓ガラスを割るところから始まる。誰が投げたのか、そしてなんのために。

 破綻した家族は娘が暴漢に襲われたことで、完全に壊れてしまう。しかし、その絆は嘘のない純粋なものへと変化する。

 人情や優しさと汚職や口利きとの境界はどこにあるのだろうか。

 

 複雑でかつ洗練された物語には様々なテーマが扱われている。父親の娘へのひたむきな愛は汚職という行き過ぎた行為へと発展してゆくが、この父親がおかれた状況で他に選択肢はあっただろうか。

 娘が暴漢に襲われたことによって、余計に海外の優秀な大学へ行かせようという気持ちが強くなる中、被害者である娘はそのストレスから海外へゆくための大切な試験をうまく受けられなくなってしまう。そんな十分な実力があるにもかかわらず、うまく行かない娘を見て父親が取った行動は至極真っ当に映る。

 父親もどんなに汚職まみれの世の中を忌諱していても、娘のためなら自分が汚れてしまうことも厭わないのである。そんな父親の愛は、娘にとっては空回りになってしまう。なぜならそれは、ルーマニアの現状を憂いる両親によって、ルーマニアの清廉な未来のためにまっとうに育てられてきたからなのである。

 この親子関係は非常に良くできていると思う。そこで主に描かれるのは、父のどうしようもない状況と娘の同しようもない状況とのぶつかり合いと、その和睦。父親は、家を追い出され、口利きを行ったことから検察から目をつけられる。ますます悪くなる状況の中でも、娘に語りかける言葉はどれも優しさに溢れ、またお節介でもあった。彼はその全てを娘の人生が良いものとなるようにと言葉をかける。しかし、最後には娘の自由、そして強さを認めることとなる。一方の娘は、父親のお節介に辟易し、またその愛に頼ってきた。だが、父親の不倫を知り家族の崩壊に気づいたときに彼女は自立を決意した。そして最後には、試験の際に自らの力で融通を図ってもらうことで、口利きや汚職といったことではなく、あくまでも人情や優しさという範囲で自らの道を切り開くととなる。

 ただ、両者ともに未来は明るいものではないのかもしれない。父親は子持ちの不倫相手との生活を築いてゆくこととなるだろう。しかし、その子供はもしかすると彼の家に石を投げていた犯人かもしれない。そして娘は、彼女への暴行事件になんらかの形で関与した可能性のある男と付き合ってゆくのだろう。それでも、二人は正直に生きることを選んだのだ。

「20センチュリー・ウーマン」

 

 監督:マイク・ミルズ

 2016年

 

 あれ、俺の15歳の頃ってどんなだったかな。と思った。アニメを見て漫画を読んでマスかきに勤しむ日々。学校は楽しくないけど、それでも通った。実際に自分が女の子と付き合ってセックスするなんてなんて、考えたことも無かったのではないか。妄想しがちで、勉強もできない。運動もできなければ、外見も良くない。私はそんな15歳だったと思う。

 私には反抗期がなかった。成長と呼べる事件も起きなかった。美しい青春と呼べることも何も無かった。普通の人が通過することも何1つ経験せず、気づけば25歳になっていた。

 あれから10年という年月がたった、何か変わったことはあるだろうか。勉強はできるようになったかもしれない。しかし、それも今では遠い昔のような気がする。そして、妄想は今も私と一緒にある。それも、悪いことに私を苦しめるまでに肥大してしまっている。高校を卒業してから運動なんて、ほとんどしなくなった。外見だって何1つよくなってない。

 私の人生がこの映画のようであったなら、どれだけ救われたことか。私の周りには、街を出ようと誘ってくれる友人もいなければ、知恵を授けてくれるような大人もいなかった。ただ、誰もが、このどうしようもない生活を見て哀れと思うだけで、救いの手なんかを差し伸べようともしない。あいつはダメな奴だから何かしてやっても無駄さ、放っておこう。

 

 

「たかが世界の終わり」

 

 監督:グザヴィエ・ドラン

 2016年

 

 最高にかっこいい映像だった。そして物語は、鋭敏かつ繊細なものであった。

息子の才能を天に与えられたものとして、それを利用して家族を望む姿にしたい母親。本来、父のいない家族を取り仕切るはずの自分がそれほど能力もなく、家族に対して影響力もないと感じ、劣等感を抱く長男。その彼の苦しみを理解し、彼の横暴な態度を認めてしまっている妻。過去を知らずに、ただ美しい部分だけを見て来た妹。

 こんな家族の元に帰る男は、それを自分が死ぬ前の最後の帰郷だと言う。帰ってみれば、家族はあいも変わらずに自分が出ていった頃の閉塞感を漂わせ。自分と同じように妹が、家を出ようとしている。心がバラバラになってしまった家族とそれを繋ぎ止める男は、家族からあまりにも多くのことを求められる。もう死んでしまうと思っていたのに、皆が彼の助けを必要としているようだった。

 成功した男に対する、卑しさも感じるような要求には、あれだけ良くしてあげた子供が家族を捨て豊かな生活を手にしたことへの憤りもあるのかもしれない。それとも、定期的に送られる絵葉書なんかではなくもっと、たくさんの愛を感じたかったのかもしれない。あくまでも、なき父親の代わりとして。その家では、彼と比べて皆がまだ子供にようなものに過ぎないのかもしれない。

 いわば、ネグレクトから生まれる憎しみや依存といった感情がのようなものが家族を捨てた彼にぶつけられているのかもしれない。父親に似た目だと言う母は、やめたはずのタバコを吸い始める。止まっていたあの頃が、また動き始めたかのように。

 家族の諍いは、しばしば長男によって起こされる。彼は家族の中でも一番の正直者であって、主人公の浅はかな点を必要以上に鋭く突いてくる。怒りに任せて生まれる誹謗はデタラメなんかではなく、主人公は何も言い出せなくなる。そこでは父親のようにどんなことも受け入れる気持ちもあったのかもしれない。

 そんな彼は、自分の運命を呪うしかない。家族に理解されない存在に生まれついてしまったことを。長男からしてみれば、彼はバケモノのような存在だった。しかし、ほかの家族は、長男こそ粗暴なバケモノであるかのように扱う。それは、次男が社会から大いに認められた存在であり、家族として理解ができなくとも、そんな人物がバケモノであるはずがないと言う表面的な前提があったのかもしれない。きっと家族は皆わかっていたはずだ。長男が正しいと言うことが、しかし、世間で認められたものを否定するのは自らこそ理解されない存在であるような気持ちにさせる。

 意を決して帰って来たのに何処かに歓迎されない部分があることにも気づいていたに違いない。成功した子供を帰宅を迎える、しばしば物語で描かれるような実に単純な祝福というのはそこにはなかった。彼はそれを予測していなかったのかもしれない。車の中で兄に話しかけた一連のシーンから察するに、12年という月日がたち家族が変わっているという期待を抱いていたのかもしれない。実際、彼は家族の元に帰るという決心をするほどの変化があったのだから。

 

 主人公は、その世から去る時に家族に対して最後の頃のあの子はこうだったという印象を持って欲しかった。彼は子供の頃から何も変わらずに最後まで美しいままでした。とか、能力があっても決して奢ることはなく、物静かな人でしたとか。そんな風に思われたかったのか。しかし、家に帰ってくると、そこには家を出た頃から変わりのない家族と、彼らの抱える問題が待っていた。

 家を出て、随分長い年月が経っていた。その間に家族が十分思い悩んできたことを知っていたのだろうか。その中では彼の悩みも、家族が抱える問題の1つに成り下がってしまっていた。この世を去ることを言い出せず、つい家族のためにまた会うことを約束してしまう。それは、理解されない子供の悲劇か。一家の主人としての優しさか。

 兄の拒絶は、皆お前の悩みを理解できないし苦しませるだけだから、これ以上ここにいてはいけないという優しさだったのかもしれない。掛け時計の時を知らせる鳥が息絶え、彼は夕日の中へ去ってゆく。

「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

  監督:ジャン=マルク・ヴァレ

  2015年

 

 原題「Demolition」は取り壊しを意味する。その動詞であるDemolishには叩いて壊すという意味がある。

 妻を失った男の義父は、何かを直す時は一度分解して原因を究明することが必要だと言う。しかし、男は分解して、もう一度組み立て直すことはなかった。

 

 この映画は、非常に繊細で、かつ掴み所のない人間心理の微妙な部分を描いている。映像や音楽、そして俳優たちの演技によって映画はしっかりとした非常に安定した完成度を持つ。しかし、描かれた感情は不安定でかつ不完全さを持つものであった。

 映画を解釈するときに、多くの人が物語のパターンや映画独自の文脈を持って理解することだろう。しかし、この映画で描かれたそれは、我々の持つ武器をするりとかわしてしまうような霧のような性質を持っているように思う。

 亡き妻への想い。彼がそれを自覚するに至るまでを描いている。それが具体的に登場人物の口で語られたのは、友人となった女性に「どうして結婚したのか」聞かれたときくらいなのではないだろうか。しかし、その時は彼もそれが意味することが愛であったとは思いもせずに、ひたすらに自分のどこに愛があるかを分解して見つけようとする。

 愛というひとことで表現してしまうと、それはそれぞれの持つそれぞれの形があたかも無いようにも聞こえる。彼は、愛を疎かにしていたと言うが、それに至るまで彼にそれが愛だと気づけなかったのも無理もない。全ての事実や全ての感情を分解して初めてどれが愛なのか気づいたのだろう。

 私には、友人となった女性、カレンはそんな彼の問題に気づいていたのではないかと思えてならない。彼が求めても決してそれに応じずに、彼を優しく受け入れる。そんな彼女には、彼が亡き妻をちゃんと愛していることが、分かっていたに違いない。

 しかし、彼女は彼女で、息子との関係に思い悩んでいる。そして、対照的にも主人公には、その問題が分かっていたに違いない。彼は、彼女の息子にある父親や友人の不在を埋めてゆく。それは、彼自身の孤独な気分を和らげるためでもあり、思い悩む母親のためでもあったのだろう。

 精神的に夫と妻でいることで、お互いのあり方が見えてきて、それとどう向き合うかを感覚的に示したとも言える。しかし、それらを直接に語ることはなく、かなりの部分を観客の判断に委ねている。

 

 分解されたものと、取り壊されたもの。物語にはこの2つのパターンがある。分解されたコンピューターやエスプレッソマシーンと取り壊された家や家具。ここに違いはあるのだろうか。のちに復活する義理の父母との関係は分解に過ぎなかったのか、完全に破壊された亡き妻の所有物は、思い出とともに完全に取り壊されてしまったのか。何が残って、何が残らなかったのか。

 妻との関係は分解され、妻との様々な思い出は取り壊される。そうして残ったのが、妻とのメリーゴーランドの思い出、半壊した家に残ったベッドルームのような、彼の居場所なのだ。

 

 この映画の難しさは、演出先行の物語だからではないかと考えることができる。分解と破壊の違いや、友人の息子の抱えるセクシャリティーの問題。あらゆることが映像としては素晴らしくも、物語に根付いていない印象を受ける。

 実際、それをクリアーするのは非常に難しいことで、全てが何かに繋がって綺麗に収まった物語は、建築的な美しさはあっても物語としての魅力が、それによって生まれる都合の良さなんかで失われてしまうことがある。しかし、それが効果的な演出であれば、それでよいのである。物語の持つ説得力とはそういうことである。

「ミッドナイト・スペシャル」

 

 監督:ジェフ・ニコルズ

 2016年

 

 豪華な俳優陣に、ワーナーピクチャーズによる配給。しかし、中身はカルト映画と言ってもいいような混沌とした代物なのである。マイケル・シャノンにキルスティン・ダンスと、さらにアダム・ドライヴァーまで、このような錚々たる顔ぶれでSFであるからにはきっとすごいものなんだろうと思うに違いない。だがそれは、良くも悪くも裏切られるのだ。

 映画を観始めてまずはじめに感じるのは、マーガレット・ミラーの「まるで天使のような」というミステリー小説にあるような、怪しげな新興宗教と対立してゆく物語が始まるのだろうかという予感だった。しかし、そんな予感は、子供が実際に超能力者であることから打ち破られてしまう。私は正直ここで、面食らったというか、このある種の裏切りはコメディなのではないかとも思った。

 こうして物語において、新興宗教自体がそれほど重要でなくなったとき、そこに残ったのは超能力があったためにあるべき幸せを築けなかった家族の物語と超能力の謎である。実際、これがメーンのテーマとして扱われてゆくことになるのだが、一方でFBIやNSAによる調査や新興宗教の男たちの追跡も描かれる。この点だけ見れば、「天空の城 ラピュタ」にもあるような、特別な力を持ったか弱い存在を色んな組織から守るというプロットであり、一見するとわかりやすい物語だと思われる。

 何よりも訳が分からなくなる原因は、多くのことが語られないところだ。説明的な描写は避けるなんて言われてはいるけれど、これは説明が極度に少ない。ぼんやりと、ああこいつは宇宙と関係があるんだとか、ああこの男は謎を解いたんだなとか思うしかない。それは、主人公の友人として彼を助ける男の視点と重なる。しかし、あくまでも彼視点の物語ではない。

 うーんつまり、映画「コクーン」にあるような宇宙に帰る話なの?と思うがそれも、どうやら違うような気もするのだ。断定することは難しいが、男の子は宇宙人ではなく、少なくとも地球に属する存在のようなのだ。じゃあ未来人?それとも別の次元の我々?と疑問に思うが、そのどちらでもあるのかもしれない。

 このぼんやりとした印象は、間違いなく狙って作られたものだ。家族として一緒に行動しているのを、いつも羨ましそうに、または寂しそうに眺める主人公の友人や、その陽気さがある意味場違いにも感じられるアダム・ドライヴァー演じる調査員、新興宗教から追い出されたものの強い未練がある哀れな男、少年を巡り様々な要素が描かれ、そして特に掘り下げられることなく壮大なエンディングを迎える。こうしたいわばダミーの的が我々に少年の正体以外のことにも目を向けさせる。100分強の長さで描くには多すぎるし、それが混沌とした印象を与える。十分に咀嚼する間を与えずに次の料理を口に詰め込むようなことをしているとも言える。

 しかし、こうしたカオスも、少年の謎めいた存在を際立たせ、そしてまた、映画自体を少年のような謎めいた印象のあるものに仕上げる装飾なのだろうと思った。

まったく、変な映画を見ちまった。ような、気が、する。

 

 結局、いい映画かと言われれば、悪くはないと言おう。ハーラン・エリスンとか好きならなおさらである。しかし、随分おかしな、ちぐはぐと言ったような印象を受けるのは間違いないし、連続ドラマ向けのアイデアだったんじゃないかという気もする。もし、すべてが意図されず偶然の演出だったとしたら、なんともくだらないことか。

 

「ゼロ・ダーク・サーティ」

 

 監督:キャスリン・ビグロー

 2012年

 

 歴史的なイベントをうまくエンターテインメントへと落とし込み、かつ、真摯に事件と向き合う態度は「ハートロッカー」にも見られる要素だろう。ただ、政治的にフレッシュな事件を描くときはやはり、その事件について個人の意見を持つ人が多く、時にそれは大きなバッシングにつながるという恐怖がつきまとう。

 この国でも、ある事件に対するとある人の姿勢を見て、やれ反日だとかやれ軍国主義だとかと非難することは多い。この映画にも、例えば捕虜への拷問などを通してオバマ政権の表面的な態度を暗に批判していると思われる描写がある。こうしたスタンスを見て多くの人が批判をしたに違いないし、多くの心ない言葉もあったに違いない。しかしそれでも、この事件が風化してしまう前にちゃんとした映画にするという強い意思がそこにはある。それは、大変勇気のいる行動だったろうし、主人公の女性の強さにもつながるところがある。

 最後に彼女が流す涙。それまで大きな敵と戦ってきた彼女の、安堵の涙か。殺害されたビンラディンを見て、そして、国へ帰ることになった時、きっと彼女は今までやってきたことの恐ろしさを実感したのかも知れない。それは、冷徹な女からひとりの人間へと戻った瞬間でもあったに違いない。

 これは、拷問官としての彼女が、それまでいた日常へと戻る物語なのかも知れない。友達もなく、恋人もいない冷徹と言われた女。一時は拷問官として、捕虜への暴力を命じることもあった。そんな彼女は、同僚であり友人であった女性の死によって、心的に少し距離のあったアルカイダが、実際的な復讐心の対象となる。そして、ついにビンラディン殺害を個人的に命じることとなる。その時の彼女は、あくまでも拷問官としての彼女だったに違いない。しかし、実際に復讐が達成されると彼女に取り付いていた何かが消えてしまう。そうしてひとりの人間として涙を流すのだ。

 そして、もうひとつ印象的な表情があった。ファレス・ファレス演じるCIA現地職員がビンラディンの遺体を見てからの表情は一体何を物語っているのだろうか。

 このCIA職員は、アメリカに協力するまでにもしかするとアルカイダによって家族が殺された過去を持っているのかも知れない。彼もまた、強い復讐心を持っていたに違いない。しかし、死体を見て彼が喜ぶことはなかった。それは、彼にとって死体が死んだ同胞との何も違わないことに気づいたからかも知れない。もしくは、あれだけの勢力を誇る組織のリーダーだった死体への哀れみなのかも知れない。しかし、喜ぶ海兵隊と対象的に描かれた彼の表情は、もっと深い何かがあるように思えた。

 1945年、ミラノ近郊である男が処刑された。ベニート・ムッソリーニである。ファシスト党を率いイタリアを統治した男は、その最後にパルチザンによって殺害されその死体は辱められた。彼は裁判にかけられることなく、略式処刑されたのだった。

 私はこの映画に描かれたビンラディンの殺害は、いわば処刑だったように思う。生きて捕獲することが出来なかった事情があったのかも知れないが、そこには復讐心や政治て、宗教的な違いから生まれる熱狂的な処刑があったのかも知れない。少なくともこの映画の中では、そう描かれる。彼の表情は、そんな非理性的な部分を暗に示しているのではないかと思う。それも批判的な目で。