映画、映画、映画

いちにちいっぽんえいがをみてなにかをかく(多分できない)ネタバレはあり。そうは言ってもただただ筋書きとか書いていったり細かく解説してとかそういうものではない。観た後に忘れないうちに急いで書くので誤字脱字はたいへん多い。近頃、寝る時間の関係上、映画が見れないこともある。

「スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜」

 

 監督:ジョージ・クルーニー

 2011年

 

 この映画では、正義という目標がいかに人を変えてしまうかということを辛辣な描写で能く描いている。一見するとジャーナリスティックな告発や政治サスペンスのようにも思えるが、この映画の本質的な部分はおそらくはそうではなく、あくまでも、自らの人生、または大衆の生活を賭けた大きな目標を実現しようという状況に置かれた人間がどう変化してゆくのか、どうならざるを得ないかということを、政治という要素を使ってうまく表現して見せたということなのだ。

 我々は普段、こうした局面に出会うことがないと思っているが、しかしながら、何も阻害するものがないからゆえに気づかないことが多いのではないだろうか。我々は、こんにち、豊かな経済の上に安定した生活を送り、誰もが病院へゆくことができ、誰もが将来の職業を選ぶことができる社会に生きてる。こうした状況は我々に、日々の全ての選択が人生に大きな意味を持つことを忘れ去れる。なぜならば、そうした選択のそれぞれが安定した生活の上ではそれほど大きな力を持たないからだ。至極当たり前のように聞こえるだろうが、この映画で描かれることはそのことが根底にある。

 我々は普段、何千万という人間を動かすことはない。大半の人間には、そのチャンスが訪れることすらない。そんな我々が、選挙という政治的な変化に直面したとき、とりわけ、ひとつひとつの決断がその将来を左右するときに、我々はその重大さの前に突如としてあらゆることに対する価値判断や強い自己主張を要求されることとなる。このような状況で、人はまともでいられるのであろうか。この映画はそこを中心に描く。

 

 この映画に描かれるような(側から見れば)汚れた争いは、この瞬間もどこかで行われているに違いない。我々人類は文明の成長と拡大を通して大きな共同体としての国家経営を実現してきた。それは歴史的に見れば、より多くの富や権力を欲した小さな共同体が始まりにある。それが無数の戦いの末に今ある国家としてひとかたまりの共同体として成立したのだ。こうして成立した国家は常に勝者のものであったし、それが不可能性を含んでいたことはフランス革命などに見ることができるかもしれない。

 このような大きな共同体は、いわばあらゆる派閥を無視した形で統合されていった背景がある。そこに現在の人権思想から始まる、平等主義や失われつつある文明の保護という価値観が生まれ、もちろん良い意味で意味で混沌が肯定され、誰もが豊かな生活を送ることができるようになった。

 こうした複合性やありのままの形を受け入れる共同体は、一方で、その枠組みを古き時代のものに依存してきた。そこにこの映画にあるような不健全な精神の源があるのかもしれない。国家の持つ極めて大きな複雑性に、個人が責任を持つことは、いかにも不釣り合いに見える。そこには成し遂げるべき大義や解決すべき課題があまりにも多すぎるのだ。そしてあまりにも巨大化してしまった経済圏は、為政者側の小さなミスで、無数の個人に対する大きな悲劇を引き起こすこともある。それは逆に言ってしまえば、何よりも為政者側のちょっとした行動で、大きな利益を生むことさえできるということなのだ。それはローマ帝国的に考えれば、名誉として歴史に名を残すことにもなるし、それ自体、生きることの目的にもなり得るのだ。

 もしかすると、そこにこそポピュリズムの入れ込む隙があるのかもしれない。我々に社会を全て見通すことはできない、そこで政治家がさも単純なシステムがあるかのように語り、人々にわかりやすく道を示すことは、選挙にゆく大衆にとって実際のところ実にありがたいことなのではないか。わかりやすい政策を掲げ、多数派の利益のために政治を動かすだけで、選挙には勝てるのだ。そこで我々は大義とはどういったものなのだろうかと考えなくてはならない。この点で、この映画の主人公は、ジョージ・クルーニー演じる候補者を支持しているのだ。

 国家の有り体はそうやすやすと語ることのできるものではない。民主国家における権利を持つ人間である限り我々はこうした欺瞞と戦わねばならない。そこでは、浅はかさは常に敵なのだ。

 

 最後にこの映画の魅力について書くと、ライアン・ゴスリングが作り出す感情や意味を伴った無表情は実に素晴らしいものだ。彼ほどにクローズアップに魅力がある俳優は、世界広しといえど、数える程しかいないだろう。以上。