それらしくなく、それっぽく

映画やドラマのネタバレがいっぱいある。誤字脱字もいっぱいある。

「アンドロメダ…」

 

 監督:ロバート・ワイズ

 1971年

 

 この堅実なSF映画の魅力は編集にあるのだろう。映像を取ってただつなぎ合わせる以上の技が、そこにはある。

 

SF映画といえば遠い未来を描くものが多いがここでは、あくまでも1971年が舞台なのだ。この映画のメッセージが持つ力は、そんな短な世界が描かれているからこそ、強く発揮されている。

 我々が見上げた先にある世界には、何があるかわからない。そんな、海底を覗き込むような恐怖心がそこにはある。我々は映画という媒体の中で様々な宇宙のあり方を見てきた。しかし、そこには都合の良さのための重力や人間にそっくりな宇宙人がいたり、どこかリアリズムに欠けると言っていいのかもしれない。

 この映画で描かれる宇宙生命体は、見事に我々の想像を超えてみせ、宇宙の持つ深みを感じることだろう。そこには魔法のような不可解な説明のつかない余地があることは確かだが、それは硬派なSFにおいては重要な要素かもしれない。スペース・オペラなんかでは、魔法のような力が出てきて戦ってりするが、そう言ったSFとは違う分類のように思える。

 この境界ほど訳のわからないものも少ないと思う。どちらにも魔法があってただ科学的に説明のつく範囲が広いというだけで、作品の分類が変わることさえあるのは、いささかあいまい過ぎないだろうか。しかし、「スター・ウォーズ」シリーズとこの映画を同じSFで語れるだろうか。さらにはタルコフスキーの「ストーカー」のようなSFはどちらに属するのだろうか。

 そこには確かな違いはあっても、境界などなく、ただ大まかにSFと呼ばれる。

「かくも長き不在」

 

 監督:アンリ・コルピ

 1961年

 

 三日前に見た映画である。どうにも書こうとするととんでも長くなり、かといって短くしようとするとうまくかけないので、なかなか何を書くか決めあぐねていた。

 物語の解説は不要だろう。そして、この映画が撮られた歴史的背景も調べればすぐにわかることだ。

 この映画は確かに素晴らしい。しかし、「ひまわり」や「ロング・エンゲージメント」といった近年の似たようなテーマを扱う作品によって、よく知る物語になってしまっている。

 とにかく、この映画の素晴らしいところは、1つ1つのカットの持つリアリズムだ。カメラは俳優のセリフを映すのではなく、演技を映す。その出で立ちや、人がまとう空気を捉えようとしている。

 近年、カット自体の時間が短くなってゆくに連れて、俳優のセリフとわかりやすいアクションだけを切り取った映画が増えてきている。そして、一方でより現実的な描写を求め、CGの技術に頼る。ここには、一種の矛盾があるのではないか。リアルであるということは、どういうことか。今一度考えるべきであろう。

「フリー・ファイヤー」

 

 監督:ベン・ウィートリー

 2017年

 

 大人向けアクションコメディの佳作といったところか。特に非があるわけでもなく、かといって別段に素晴らしいというわけでもない。タランティーノ的な犯罪映画をステディに仕上げたとでも言うのが良いかもしれない。

 実際、シチュエーションコメディとしては結構よくできていて、ミニマルな状況をうまく利用したそのストーリーは、娯楽作品として、キチンと作ってある。

 

 この映画でもまた、ジョン・デンヴァーの名前を見ることとなった。前回は「エイリアン コヴェナント」だ。そしてもっと遡れば、Falloutシリーズの新作のトレイラーだろう。

 では、カントリーミュージックの郷愁を誘うような明るさが一体なぜ、こうした映画でも使われたのか。これは、いわゆる対位法という技法によるものだ。ヨハン=セバスティアンが得意とした音楽の形式ではなく、映画音楽における演出法の1つとしての対位法だ。わかりやすい例を挙げると、最近新たなトレイラーが公開され、話題になっているエヴァンゲリオン、新劇場版シリーズにおいてもこれは重要なシーンでよく使われている。具体的に言えば、3号機をダミーシステムを使った初号機が無残にも破壊するシーンなどがそうだ。

 これが効果的なのは実際に見たことがあるのであれば、お分かりいただけるだろうが、映画やゲームにおいてあまりに多くの場面で目にするこの演出法はもはや陳腐とも感じてしまう。使うなら一回だけ、それも一番大切なシーンでと決めておくべきだと思う。時にはそんな安易とも言えるような演出に頼らずに物語と俳優の演技だけでやり通すのが、作家としての見せ所ではないだろうか。手軽に感動を生ませようとする意図を観客に気取られてはならない。それはとにかく自然であるべきなのだ。

 

 

 

「光をくれた人」

 

 監督:デレク・シアンフランス

 2016年

 

 前回に引き続き、主演はマイケル・ファスベンダーである。そして、彼の演技は素晴らしいのだ。美しい景色、幼い子供を巡るどうにもならない人々の関係、この映画は、大海を覆う厚い雲のような印象を持つ。下を見れば海が荒れていて、上を見れば美しい太陽が輝く、そんな映画だ。

 すでに死んでしまったような灯台守と、まさに生きるということを具現化したかのような若い女、子供ができなかった中、島に流れ着いた子供。このまま親の元へ返すべきか、自分たちの子供として育てるか、この映画はその2つの道で揺れ動く二人をうまく描いて見せた。

 

 映画について言えば、そう、強いていうならば、レイチェル・ワイズ演じる、少女の実の母親の描写にもう少し時間をかけてもよかったのではと思う点、もう1つは、エンディングが多少駆け足だった点。些細なことではあるし、おそらく映画自体の長さが変わることなので、どうにもならない事情があったのかもしれない。主人公が裁判のために島から出る際に、海が荒れていると言って男が入ってきたが、実際外に出て見ると雨すら降ってない。これは編集上の問題の名残なのではないか。

 

 監督であるデレク・シアンフランスは「ブルーバレンタイン」で一躍有名となった若手の一人だ。運命的な恋の終焉と子供を巡る夫婦の関係を描いたこの映画は2010年代の恋愛映画の中でも非常に優れた作品と言えるだろう。

 この映画は、原作のある作品ではあるが、運命やいわゆる定番の流れに対する抗いは共通する点として考えられるだろう。天から与えられたかのような子供を手放すことになるのは、ある意味、定番に反すると言える。定番というより常識といってもいいかもしれない。この他に道がない状況と、それによって生まれる罪、これは誰にでも起き得る事柄として、また子供を授かるという多くの人が何かしらで関わることについての共感できる事柄として、我々は重く受け止めることになる。

 どうしようもない状況とそれに抗う夫婦の姿は、美しい景色とともに、純粋な愛をめぐる物語として語られる。

 

 

「プロメテウス」/「エイリアン・コヴェナント」

 

 監督:リドリー・スコット

 2012年/2017年

 

 終わってみて思うのは、「エイリアン」(1979年)とまだ完全に繋がってないように見えることだ。ただ、今更そんな整合性など気にしても仕方ないのでは?とか、映画として面白ければいいのでは?と思える。

 映画自体は、いかにも現代のSF作品らしく、細部まで詳しく描かれた宇宙船や背景とデジタルらしさのある涼しげな色調をしている。

 今作は、それまでよりも、よりもっと抽象的なテーマがメインに据えられる。それ自体は、前作である「エイリアン4」と共通する部分があるだろうし、アンドロイドの性格や創造に関することをめぐるくだりは似通ってると言えるかもしれない。それは、さらに深く掘り下げられ、創造主をめぐる宗教の立場や科学の立場、そして空想科学の立場を踏まえて、エンジニアによって作られた人間と、人によって作られたアンドロイド、そしてアンドロイドによって完成されたエイリアンの関係は良くできていると言える。難解そうに見えるがかなり単純な構成といえよう。そこにはアニメ映画「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」にもあったような、しばしば見かけることのある人工生命体の心という問題や、人間の寿命と永遠の命などの要素が物語を一層複雑に見せる。

 ただ、やはりこの連続する2作品を包括的にみれば、中心には創造という行為がある。そのことに気づいているのは作中でもデイヴィッドと呼ばれるアンドロイドのみで彼こそが、この物語をコントロールする存在と言える。それらしく主人公が設定されているものの、この物語を2つで1つとして考えれば、間違いなく主人公はデイヴィッドなのだ。

 この映画で描かれる被創造物の創造主への叛逆は、確かにこれまでのシリーズでもみられることだろう。攻撃のために作られた完全な生物は人間なしでは成体になれないにも関わらず、人間を殺しまくるのだ。もしかするとここにウロボロスのような関係が生まれるかもしれない。人間によって生み出されたアンドロイドが生み出したエイリアンが人間を殺す。これはアンドロイドによる叛逆のようにも見えるが、結局のところエイリアン自身の祖父母的な存在に対する反逆でも有る。それは、劇中においてエンジニアがデイヴィッドによって壊滅させられたことと相似の関係にある。

 この直接なされないという点では皮肉な関係は、運命的なもの、つまりそこに神(作家)的なコントロールがある。作中で語られる神は、その世界を作った作家であり、つまり彼らはまた全ての創造主である。結局のところ作中の登場人物が何を言ってもそれですら作られたものなのだ。

 

 1つ言うならば。前日譚の持つ力についてだ。確かにそれは人気だろう。ミステリ小説で探偵が謎を解き明かして見せたときのような気持ちになる。ああ、そういうわけだったのか。とか、本当はこうだったんだ。とか。

 ただ、それはマジシャンが種明かしをするようなものでもある。そこにあった魔法が消えてしまうのだ。絶対不可能とされ、魔法の類かと言われるようなトリックー例えばジョン・ディクスン・カーの小説のようなーが種明かしされるのは、気持ちよさと共に残念な気持ちにもなる。だからこそカーはその作品「火刑法廷」においてあえて魔法を残したのだ。

 エイリアンの持つ怖さは、その魔法によるところがあるだろう。しかし、複数のシリーズが作られ、その度に生態が明らかになるにつれて、それが持つ言いようのない気味の悪さは、物質的で兵器的な恐怖に変わる。この映画の辻褄の合わない部分はそれを意図したとは思えないが、良くも悪くも、不気味な含みをもたせた。しかし、デイヴィッドが地下に案内し、あの見た事のある卵を見せたときに、魔法は解けてしまった。それはもはや超常の存在ではなく、作られた兵器にすぎなくなった。

 この映画は蛇足だったのではないか。そう感じずにはいられない。しかし、映画としてなかなか面白いので、変に保守的なファンでもない限り、そんな事どうでもいいと思える。まあ、いっか。面白かったし、と。

「エイリアン4」

 

 監督:ジャン=ピエール・ジュネ

 1997年

 

 俳優は今作が一番豪華なのではないか。とはいえ、それもジャン=ピエール・ジュネ監督御用達の俳優がいるおかげでそう感じるだけかもしれないが。他には、ティム・バートンの「ビートルジュース」で主役を演じたウィノナ・ライダーや「カッコーの巣の上で」で印象的な患者を演じたブラッド・ドゥーリフなどが出演している。

 製作会社はこれでよかったの?とまず思うことだろう。前作もフィンチャーらしさがあったり、確かにシリーズの意向として新しさだったり作家性というのが重視されて来たことは分かるだろう。しかし、それでもやっぱりこれでよくゴーサインが出たものだと。その寛容な態度は感嘆に値する。

 ジャン=ピエール・ジュネに好き放題やらせてもらったのではないだろうか。コミカルなシーンやセリフの多さは際立ったものだ。エイリアン自体の登場が少ないせいか、ホラーの持つ緊張感が薄く、むしろよくあるアクション映画と変わりがないように思える。なんとも洗練されていないというか、相当苦心したのだろうか、どうも印象がぼんやりとしたものになっている。スマートな教科書的なホラーというよりもむしろ、いまでいうカルト的なものになっている。

 ただやはりそこは、この監督である。セットのかっこよさやグロテスクな描写にかけては一級のものだ。実に個性的で、かつ独創的な未来を描いている。それは、前作とは大きくかけ離れている点だ。一体どんな仕組みをしているかわからないような謎の飲み物などの小道具はまさに、彼でしか描けないものだろう。

 ここでふと思ったのが、この時点でこの監督は長編を2本しか撮っておらず、それもあの「アメリ」もまだ作られていないころだ。それでも、彼をエイリアンシリーズ第4作目の監督にしようとしたその態度は、手放しにでも評価できるものだろう。

 

 ストーリーはリプリーの持つ母娘という関係に対する強い思いをうまく使ったもので、シリーズ全体の世界観から見てみると非常に興味深いものとなっている。前作から200年後という時代におけるアンドロイドと人間との関係の変化は、無理なく考えられている。とはいえ、異色の作品であるには変わらず、保守的なエイリアンファンとしての視点、ジャン=ピエール・ジュネのファンとしての視点では評価が大きく別れることだろう。

「エイリアン3」

 

 監督:デヴィット・フィンチャー

 1992年

 

 まずこの映画で感じたのは、映画自体の出来は前作よりずっと良いということだ。それまでとは違った空気感や物語の進行には、すでにフィンチャーらしさが見て取れ、彼がサスペンス作家としてすでに卓越した腕を持っていたことがわかる。

 この映画を酷評しようとすれば、例えばお粗末な合成やそれまでのSFホラーから随分変わってしまった物語など、不安定な要素。つまり、この映画がどうあるべきかという視点から見たときの、観客が受ける肩透かしなんかが挙げられる。宇宙船やコロニーなど実にSF的なテクノロジーに満ちた舞台から一転、牛を飼い、包丁で屠殺する、幾分か中世を思わせるような要素もある、荒廃した工場に主人公は転がり込むのだ。

 こうした変化は実に唐突なものだし、当時の評価が芳しくないこともわからないでもない。しかし、この映画は、エイリアンシリーズの保守的な観点を捨てたときにその良さに気づけるようなものではないだろうか。

 ただ、大きな問題があるのは確かだ。それは、この映画にエイリアンが存在しなくとも成立し得るのではないかという点だ。もしかすると、この物語は2つの筋書きの合体なのかもしれない。1つはミステリーとして、もう1つはエイリアンシリーズとして。

 仮にエイリアンの存在が無かったとして考えてみると、どうだろうか。

 

 少人数の男だけがいる刑務所の星。誰もが凶悪な犯罪を犯し、長期間そこにいる。外界から孤絶し、科学技術が故障したそこでは、変形したキリスト教が囚人たちによって信仰されている。貞節を重んじ、アポカリプスを信じる彼らは、はたから見ると狂気的に映る儀式を行う。

 そんな中、その星に美しい女性がひとり遭難する。事故で家族を失い絶望にくれる彼女は、一週間後に来る定期便でしかそこから出ることはできない。囚人たちは彼女を見て戸惑う。それもそのはずで、女性を見ることすらない環境で信仰を持っているとはいえ、彼らは囚人、罪を犯したものたちなのだ。囚人たちは彼女を、奇異や好色な目つきで見つめ、強姦未遂も犯す。そんな彼女を助けるのは、遭難していた彼女を見つけた医者である。彼もまた囚人であり、暗い過去を持っていたが、彼女に優しく接する。しかし、一方でなんだかわからない薬を彼女に投与する。

 こうした緊張感の中、囚人の一人がダクトで死亡しているのが見つかる。事故として処理されたが、そのすぐ後にまた二人が死亡する。その時に助かった男が犯人とされ拘束されたが、その後に医者の男が殺害される。

 仲間を失った女性は一週間生き延びることはできるのか。そして、一体誰が囚人を殺害したのか。

 

 実際のところ、これで映画一本、十分に作れるのではなかろうか。ただこれはエイリアンシリーズの第3作として作られた映画であって、フィンチャーお得意のミステリではない。しかし、観客だけに事実を提示し、それを知らない登場人物が不幸に巻き込まれる、いわばサスペンスの王道が随所に見られ。何をしでかすかわからないような、狂った囚人たちの持つ、緊張感はそれに彩りを加える。この点で、この映画は実に出来の良いものだと言える。そしてこの映画の持つ新しさは、この映画そのものの存在についての説得力を持つ。その攻めの姿勢は評価に値するはずだ。