映画、映画、映画

いちにちいっぽんえいがをみてなにかをかく(多分できない)ネタバレはあり。そうは言ってもただただ筋書きとか書いていったり細かく解説してとかそういうものではない。観た後に忘れないうちに急いで書くので誤字脱字はたいへん多い。近頃、寝る時間の関係上、映画が見れないこともある。

「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

  監督:ジャン=マルク・ヴァレ

  2015年

 

 原題「Demolition」は取り壊しを意味する。その動詞であるDemolishには叩いて壊すという意味がある。

 妻を失った男の義父は、何かを直す時は一度分解して原因を究明することが必要だと言う。しかし、男は分解して、もう一度組み立て直すことはなかった。

 

 この映画は、非常に繊細で、かつ掴み所のない人間心理の微妙な部分を描いている。映像や音楽、そして俳優たちの演技によって映画はしっかりとした非常に安定した完成度を持つ。しかし、描かれた感情は不安定でかつ不完全さを持つものであった。

 映画を解釈するときに、多くの人が物語のパターンや映画独自の文脈を持って理解することだろう。しかし、この映画で描かれたそれは、我々の持つ武器をするりとかわしてしまうような霧のような性質を持っているように思う。

 亡き妻への想い。彼がそれを自覚するに至るまでを描いている。それが具体的に登場人物の口で語られたのは、友人となった女性に「どうして結婚したのか」聞かれたときくらいなのではないだろうか。しかし、その時は彼もそれが意味することが愛であったとは思いもせずに、ひたすらに自分のどこに愛があるかを分解して見つけようとする。

 愛というひとことで表現してしまうと、それはそれぞれの持つそれぞれの形があたかも無いようにも聞こえる。彼は、愛を疎かにしていたと言うが、それに至るまで彼にそれが愛だと気づけなかったのも無理もない。全ての事実や全ての感情を分解して初めてどれが愛なのか気づいたのだろう。

 私には、友人となった女性、カレンはそんな彼の問題に気づいていたのではないかと思えてならない。彼が求めても決してそれに応じずに、彼を優しく受け入れる。そんな彼女には、彼が亡き妻をちゃんと愛していることが、分かっていたに違いない。

 しかし、彼女は彼女で、息子との関係に思い悩んでいる。そして、対照的にも主人公には、その問題が分かっていたに違いない。彼は、彼女の息子にある父親や友人の不在を埋めてゆく。それは、彼自身の孤独な気分を和らげるためでもあり、思い悩む母親のためでもあったのだろう。

 精神的に夫と妻でいることで、お互いのあり方が見えてきて、それとどう向き合うかを感覚的に示したとも言える。しかし、それらを直接に語ることはなく、かなりの部分を観客の判断に委ねている。

 

 分解されたものと、取り壊されたもの。物語にはこの2つのパターンがある。分解されたコンピューターやエスプレッソマシーンと取り壊された家や家具。ここに違いはあるのだろうか。のちに復活する義理の父母との関係は分解に過ぎなかったのか、完全に破壊された亡き妻の所有物は、思い出とともに完全に取り壊されてしまったのか。何が残って、何が残らなかったのか。

 妻との関係は分解され、妻との様々な思い出は取り壊される。そうして残ったのが、妻とのメリーゴーランドの思い出、半壊した家に残ったベッドルームのような、彼の居場所なのだ。

 

 この映画の難しさは、演出先行の物語だからではないかと考えることができる。分解と破壊の違いや、友人の息子の抱えるセクシャリティーの問題。あらゆることが映像としては素晴らしくも、物語に根付いていない印象を受ける。

 実際、それをクリアーするのは非常に難しいことで、全てが何かに繋がって綺麗に収まった物語は、建築的な美しさはあっても物語としての魅力が、それによって生まれる都合の良さなんかで失われてしまうことがある。しかし、それが効果的な演出であれば、それでよいのである。物語の持つ説得力とはそういうことである。