それらしくなく、それっぽく

映画やドラマのネタバレがいっぱいある。誤字脱字もいっぱいある。

「たかが世界の終わり」

 

 監督:グザヴィエ・ドラン

 2016年

 

 最高にかっこいい映像だった。そして物語は、鋭敏かつ繊細なものであった。

息子の才能を天に与えられたものとして、それを利用して家族を望む姿にしたい母親。本来、父のいない家族を取り仕切るはずの自分がそれほど能力もなく、家族に対して影響力もないと感じ、劣等感を抱く長男。その彼の苦しみを理解し、彼の横暴な態度を認めてしまっている妻。過去を知らずに、ただ美しい部分だけを見て来た妹。

 こんな家族の元に帰る男は、それを自分が死ぬ前の最後の帰郷だと言う。帰ってみれば、家族はあいも変わらずに自分が出ていった頃の閉塞感を漂わせ。自分と同じように妹が、家を出ようとしている。心がバラバラになってしまった家族とそれを繋ぎ止める男は、家族からあまりにも多くのことを求められる。もう死んでしまうと思っていたのに、皆が彼の助けを必要としているようだった。

 成功した男に対する、卑しさも感じるような要求には、あれだけ良くしてあげた子供が家族を捨て豊かな生活を手にしたことへの憤りもあるのかもしれない。それとも、定期的に送られる絵葉書なんかではなくもっと、たくさんの愛を感じたかったのかもしれない。あくまでも、なき父親の代わりとして。その家では、彼と比べて皆がまだ子供にようなものに過ぎないのかもしれない。

 いわば、ネグレクトから生まれる憎しみや依存といった感情がのようなものが家族を捨てた彼にぶつけられているのかもしれない。父親に似た目だと言う母は、やめたはずのタバコを吸い始める。止まっていたあの頃が、また動き始めたかのように。

 家族の諍いは、しばしば長男によって起こされる。彼は家族の中でも一番の正直者であって、主人公の浅はかな点を必要以上に鋭く突いてくる。怒りに任せて生まれる誹謗はデタラメなんかではなく、主人公は何も言い出せなくなる。そこでは父親のようにどんなことも受け入れる気持ちもあったのかもしれない。

 そんな彼は、自分の運命を呪うしかない。家族に理解されない存在に生まれついてしまったことを。長男からしてみれば、彼はバケモノのような存在だった。しかし、ほかの家族は、長男こそ粗暴なバケモノであるかのように扱う。それは、次男が社会から大いに認められた存在であり、家族として理解ができなくとも、そんな人物がバケモノであるはずがないと言う表面的な前提があったのかもしれない。きっと家族は皆わかっていたはずだ。長男が正しいと言うことが、しかし、世間で認められたものを否定するのは自らこそ理解されない存在であるような気持ちにさせる。

 意を決して帰って来たのに何処かに歓迎されない部分があることにも気づいていたに違いない。成功した子供を帰宅を迎える、しばしば物語で描かれるような実に単純な祝福というのはそこにはなかった。彼はそれを予測していなかったのかもしれない。車の中で兄に話しかけた一連のシーンから察するに、12年という月日がたち家族が変わっているという期待を抱いていたのかもしれない。実際、彼は家族の元に帰るという決心をするほどの変化があったのだから。

 

 主人公は、その世から去る時に家族に対して最後の頃のあの子はこうだったという印象を持って欲しかった。彼は子供の頃から何も変わらずに最後まで美しいままでした。とか、能力があっても決して奢ることはなく、物静かな人でしたとか。そんな風に思われたかったのか。しかし、家に帰ってくると、そこには家を出た頃から変わりのない家族と、彼らの抱える問題が待っていた。

 家を出て、随分長い年月が経っていた。その間に家族が十分思い悩んできたことを知っていたのだろうか。その中では彼の悩みも、家族が抱える問題の1つに成り下がってしまっていた。この世を去ることを言い出せず、つい家族のためにまた会うことを約束してしまう。それは、理解されない子供の悲劇か。一家の主人としての優しさか。

 兄の拒絶は、皆お前の悩みを理解できないし苦しませるだけだから、これ以上ここにいてはいけないという優しさだったのかもしれない。掛け時計の時を知らせる鳥が息絶え、彼は夕日の中へ去ってゆく。