映画、映画、映画

いちにちいっぽんえいがをみてなにかをかく(多分できない)ネタバレはあり。そうは言ってもただただ筋書きとか書いていったり細かく解説してとかそういうものではない。観た後に忘れないうちに急いで書くので誤字脱字はたいへん多い。近頃、寝る時間の関係上、映画が見れないこともある。

「エイリアン2」

 

 監督:ジェームズ・キャメロン

 1986年

 

 名作SFホラー映画の第二弾。それでも、これで見るのは2回目だ。さらに言えば、3と4とその先のシリーズも見ていない。

 

 良くできている。それに尽きる。しかし、この映画の場合、良くできているだけで良いのだろうか。

 シリーズ第1作は今、見ても色褪せることのない、SFホラーというジャンルのもっとも新しい古典の一つだろう。残酷描写や宇宙船のかっこいいメカニック。何と言ってもエイリアンのデザインには抜きん出たものがあった。

 本作も、そうした第一作の空気を踏襲しつつ、惑星のコロニーやエイリアンの巣というまた違った舞台を描く。エイリアンの生態を知るという、生物学的なロマンと言えるか。何かわからないものを発見する高揚感がそこにはある。

 おそらくこの第二作の問題は、代わり映えしない展開という点にあるのかもしれない。確かに物語を彩る要素自体は増えてはいるが、それは映画自体の時間が延びたことと同じことを意味する。そして、中身はその分だけ薄れて結局はただのドル箱映画であるように感じる。

 エイリアンが登場するまでに一時間近くあり、それから映画が終わるまでにまた一時間半以上ある。それは冗長に感じることもある。というよりも観客もこれだけ長いこと緊張が続くと疲れるものだ。

 「ゼロ・グラビティ」という映画があった。地球の衛星軌道上での遭難を描いたその映画は、地球を一周するたびに起きる問題などの緊張の連続で、さらには3Dということもあり、映画館を後にしたときの印象は、ただ疲れたということだった。本作はそこまではいかなくとも、確かに疲労感を与える映画だと思う。

 

 1979年にシリーズ第1作が公開されて、いま、40年近くが経とうとしている。それから無数の映画が生まれ、そこにはたくさんの「エイリアン」の影響を受けた映画もあった。我々は無数の緊張感のあるシーンを見続けてきて、それは今、飽和状態にあるように思える。感覚の麻痺や不感症とでもいうのだろうか。

 クリストファー・リーピーター・カッシングが活躍したハマー・フィルムのホラー映画や、アルフレッド・ヒッチコックのサスペンスは今や、退屈なものと思う人がいるかもしれない。(この時代にできたホラーやサスペンスの映画の文法は、それができてから随分経った頃の映画である「エイリアン」の中でも見られる。もちろんそれは今も変わらない)

 こんな人に会ったことがある。白黒映画はつまらないというのだ。私はすぐにそれを批判したが、実際のところ、わからなくもないこともないと感じていた。色彩のもたらす表現の多様性や、そのリアリズムは映画を楽しむのに重要なことだ。それがなかったら、確かに退屈に感じるかもしれない。ただ、一番大きな問題は、今の過激な表現に慣れてしまったおかげで、過去の表現がそれほどリアルに感じないということかもしれない。

 以前は、できることが少なかった。それは特殊撮影においても、ストーリーにおいてもである。1950年代のハリウッドですら、イングリッド・バーグマンロベルト・ロッセリーニと不倫の末に家庭を捨て結婚しただけで、仕事が減るような環境なのだ。今の日本の芸能界(私はあまりこと言葉が好きでない)でも同じようなー形骸化してしまってはいるがー道徳主義が残っている。

 そんな、できることが少なかった時代に比べて、いまはどんなことだってできる。科学技術の進歩と、1960年代後半からインディペンデント映画が押しし進めてきた表現の自由はいまだに成長を続け、今、まさに現在こそが常に黄金時代なのである。こうした刺激は、今では映画の枠を超え、物理的な経験を伴うビデオゲームとも結びついている。それであっても、テレビ画面からヘッドマウントディスプレイやコントローラーから我々の体の仕草へと進歩を続けている。

 私は時々不安になるのだ。それは長く続く夢のように終わりあるものなのだろうか。増大する刺激のはては、一体どこにあるのだろうか。と。