それらしくなく、それっぽく

映画やドラマのネタバレがいっぱいある。誤字脱字もいっぱいある。

「わたしは、ダニエル・ブレイク」

 

 監督:ケン・ローチ

 2016年公開

 

 仕事探しなんてことを始めてみると、自分のことで様々なことが分かってくる。そして、それは往往にして、悪いことばかりである。

 経験もなく、資格もない。体が丈夫な訳でもなく、頭が良い訳でもない。そんなことを思い知らされている折に、ふと自分は社会にとって必要のない存在なのではないかと思ってしまう。

 わたしに出来る事とは何か、わたしがやりたい事とは何か。「省みて悔いのない生活」なんて言うことがあるかもしれない。しかし、人生というもの、自分ならきっと出来ると思っていても、そして、どんなに情熱があったとしても、うまくゆくとは限らない。

 そうやって、人は孤独と不能感によって、それまであった情熱や自信を失ってゆくのかもしれない。そして、誰もわたしを批判しない世界へと引き篭もってしまう。「こんな世の中なら、私の方から願い下げだ」と。

 この映画は、そんな気分を思い起こさせる。

 

 この映画は悲劇なのではないかと感じた方もいるかも知れない。それについて少し考えてみる。

 例えば、悪夢を見た朝に「ああ、夢でよかった」なんて思うことがあるだろう。そして、幸せな夢を見た日には「ああ、あれが現実だったらなあ」と思うのだ。

 この映画は、私に「ああ、あれが現実だったらなあ」と思わせるところがある。貧しい親子との出会いや、主人公が壁に抗議の落書きを書いた際の拍手なんか、起こりそうもないことだ。

 貧しさの中の人間性や人間としての在り方を表現することは、貧困のどうしようもなさを何処かへと追いやってくれる夢のようなものなのかも知らない。 

 (注:もちろんここには、裕福であることが必ずしも幸福であるとは限らないという前提がある。) 

 そして、もう1つ、古代ギリシャにおける大抵の悲劇的な運命は、神々の冷徹さや嫉妬から起きるとされた。それは、これほどの悲しみを誰かのせいにできたら楽になるに違いないという気持ちの表れでもあったかも知れないし、また、悲劇的人生のどうしようもなさを表しているのかも知れない。

 であるから、もし仮にこの物語が悲劇ならば、むしろ彼は仕事も得ることができて、今まで通りの生活を手にいれることができたかも知れない。しかし、親子との出会いは悲惨なものに終わるのだ。

 この映画が根本的に悲劇ではないのがそこである。社会的には一見悲劇に見えるこの物語も、不屈の人間性という観点から見れば幸せな終焉を迎えたと言えるからだ。

 だからと言って、この作品は人間たちだけをメインに据えて描いたものかと言われればそうとも言えない。やはり、そこでは十分な説得力のある社会的な問題定義もなされている。

 ひどい役所の仕事なんかが演出過多に見えるのは、おそらくこの2つの側面のバランスを取るために行われたことだと思われる。それは、職安の壁に落書きをしているときに現れる主人公の行いを支持し、皆に訴えかける男という都合の良い存在にも現れているのかも知れない。2つの側面の歩み寄りを苦悩した証だろう。

 そして、この2つの側面がバラン良く表されていることが、喜劇的でもありながら、喜劇的な側面を感じることにつながるのだ。

 これこそ脚本と演出の妙技ともいえよう。建築的な美しさがそこにある。

 

 

 ただ、金賞をとるほどかはなんとも言えねーな。まあ悪く言えば、優等生的なね。あと、子供を演出の道具として使う感じがちょっとどうもね。もちろん悪い映画ではないよ。だけど、映画史に載るほどではないかも知れない。