それらしくなく、それっぽく

映画やドラマのネタバレがいっぱいある。誤字脱字もいっぱいある。

「エイリアン4」

 

 監督:ジャン=ピエール・ジュネ

 1997年

 

 俳優は今作が一番豪華なのではないか。とはいえ、それもジャン=ピエール・ジュネ監督御用達の俳優がいるおかげでそう感じるだけかもしれないが。他には、ティム・バートンの「ビートルジュース」で主役を演じたウィノナ・ライダーや「カッコーの巣の上で」で印象的な患者を演じたブラッド・ドゥーリフなどが出演している。

 製作会社はこれでよかったの?とまず思うことだろう。前作もフィンチャーらしさがあったり、確かにシリーズの意向として新しさだったり作家性というのが重視されて来たことは分かるだろう。しかし、それでもやっぱりこれでよくゴーサインが出たものだと。その寛容な態度は感嘆に値する。

 ジャン=ピエール・ジュネに好き放題やらせてもらったのではないだろうか。コミカルなシーンやセリフの多さは際立ったものだ。エイリアン自体の登場が少ないせいか、ホラーの持つ緊張感が薄く、むしろよくあるアクション映画と変わりがないように思える。なんとも洗練されていないというか、相当苦心したのだろうか、どうも印象がぼんやりとしたものになっている。スマートな教科書的なホラーというよりもむしろ、いまでいうカルト的なものになっている。

 ただやはりそこは、この監督である。セットのかっこよさやグロテスクな描写にかけては一級のものだ。実に個性的で、かつ独創的な未来を描いている。それは、前作とは大きくかけ離れている点だ。一体どんな仕組みをしているかわからないような謎の飲み物などの小道具はまさに、彼でしか描けないものだろう。

 ここでふと思ったのが、この時点でこの監督は長編を2本しか撮っておらず、それもあの「アメリ」もまだ作られていないころだ。それでも、彼をエイリアンシリーズ第4作目の監督にしようとしたその態度は、手放しにでも評価できるものだろう。

 

 ストーリーはリプリーの持つ母娘という関係に対する強い思いをうまく使ったもので、シリーズ全体の世界観から見てみると非常に興味深いものとなっている。前作から200年後という時代におけるアンドロイドと人間との関係の変化は、無理なく考えられている。とはいえ、異色の作品であるには変わらず、保守的なエイリアンファンとしての視点、ジャン=ピエール・ジュネのファンとしての視点では評価が大きく別れることだろう。

「エイリアン3」

 

 監督:デヴィット・フィンチャー

 1992年

 

 まずこの映画で感じたのは、映画自体の出来は前作よりずっと良いということだ。それまでとは違った空気感や物語の進行には、すでにフィンチャーらしさが見て取れ、彼がサスペンス作家としてすでに卓越した腕を持っていたことがわかる。

 この映画を酷評しようとすれば、例えばお粗末な合成やそれまでのSFホラーから随分変わってしまった物語など、不安定な要素。つまり、この映画がどうあるべきかという視点から見たときの、観客が受ける肩透かしなんかが挙げられる。宇宙船やコロニーなど実にSF的なテクノロジーに満ちた舞台から一転、牛を飼い、包丁で屠殺する、幾分か中世を思わせるような要素もある、荒廃した工場に主人公は転がり込むのだ。

 こうした変化は実に唐突なものだし、当時の評価が芳しくないこともわからないでもない。しかし、この映画は、エイリアンシリーズの保守的な観点を捨てたときにその良さに気づけるようなものではないだろうか。

 ただ、大きな問題があるのは確かだ。それは、この映画にエイリアンが存在しなくとも成立し得るのではないかという点だ。もしかすると、この物語は2つの筋書きの合体なのかもしれない。1つはミステリーとして、もう1つはエイリアンシリーズとして。

 仮にエイリアンの存在が無かったとして考えてみると、どうだろうか。

 

 少人数の男だけがいる刑務所の星。誰もが凶悪な犯罪を犯し、長期間そこにいる。外界から孤絶し、科学技術が故障したそこでは、変形したキリスト教が囚人たちによって信仰されている。貞節を重んじ、アポカリプスを信じる彼らは、はたから見ると狂気的に映る儀式を行う。

 そんな中、その星に美しい女性がひとり遭難する。事故で家族を失い絶望にくれる彼女は、一週間後に来る定期便でしかそこから出ることはできない。囚人たちは彼女を見て戸惑う。それもそのはずで、女性を見ることすらない環境で信仰を持っているとはいえ、彼らは囚人、罪を犯したものたちなのだ。囚人たちは彼女を、奇異や好色な目つきで見つめ、強姦未遂も犯す。そんな彼女を助けるのは、遭難していた彼女を見つけた医者である。彼もまた囚人であり、暗い過去を持っていたが、彼女に優しく接する。しかし、一方でなんだかわからない薬を彼女に投与する。

 こうした緊張感の中、囚人の一人がダクトで死亡しているのが見つかる。事故として処理されたが、そのすぐ後にまた二人が死亡する。その時に助かった男が犯人とされ拘束されたが、その後に医者の男が殺害される。

 仲間を失った女性は一週間生き延びることはできるのか。そして、一体誰が囚人を殺害したのか。

 

 実際のところ、これで映画一本、十分に作れるのではなかろうか。ただこれはエイリアンシリーズの第3作として作られた映画であって、フィンチャーお得意のミステリではない。しかし、観客だけに事実を提示し、それを知らない登場人物が不幸に巻き込まれる、いわばサスペンスの王道が随所に見られ。何をしでかすかわからないような、狂った囚人たちの持つ、緊張感はそれに彩りを加える。この点で、この映画は実に出来の良いものだと言える。そしてこの映画の持つ新しさは、この映画そのものの存在についての説得力を持つ。その攻めの姿勢は評価に値するはずだ。 

「エイリアン2」

 

 監督:ジェームズ・キャメロン

 1986年

 

 名作SFホラー映画の第二弾。それでも、これで見るのは2回目だ。さらに言えば、3と4とその先のシリーズも見ていない。

 

 良くできている。それに尽きる。しかし、この映画の場合、良くできているだけで良いのだろうか。

 シリーズ第1作は今、見ても色褪せることのない、SFホラーというジャンルのもっとも新しい古典の一つだろう。残酷描写や宇宙船のかっこいいメカニック。何と言ってもエイリアンのデザインには抜きん出たものがあった。

 本作も、そうした第一作の空気を踏襲しつつ、惑星のコロニーやエイリアンの巣というまた違った舞台を描く。エイリアンの生態を知るという、生物学的なロマンと言えるか。何かわからないものを発見する高揚感がそこにはある。

 おそらくこの第二作の問題は、代わり映えしない展開という点にあるのかもしれない。確かに物語を彩る要素自体は増えてはいるが、それは映画自体の時間が延びたことと同じことを意味する。そして、中身はその分だけ薄れて結局はただのドル箱映画であるように感じる。

 エイリアンが登場するまでに一時間近くあり、それから映画が終わるまでにまた一時間半以上ある。それは冗長に感じることもある。というよりも観客もこれだけ長いこと緊張が続くと疲れるものだ。

 「ゼロ・グラビティ」という映画があった。地球の衛星軌道上での遭難を描いたその映画は、地球を一周するたびに起きる問題などの緊張の連続で、さらには3Dということもあり、映画館を後にしたときの印象は、ただ疲れたということだった。本作はそこまではいかなくとも、確かに疲労感を与える映画だと思う。

 

 1979年にシリーズ第1作が公開されて、いま、40年近くが経とうとしている。それから無数の映画が生まれ、そこにはたくさんの「エイリアン」の影響を受けた映画もあった。我々は無数の緊張感のあるシーンを見続けてきて、それは今、飽和状態にあるように思える。感覚の麻痺や不感症とでもいうのだろうか。

 クリストファー・リーピーター・カッシングが活躍したハマー・フィルムのホラー映画や、アルフレッド・ヒッチコックのサスペンスは今や、退屈なものと思う人がいるかもしれない。(この時代にできたホラーやサスペンスの映画の文法は、それができてから随分経った頃の映画である「エイリアン」の中でも見られる。もちろんそれは今も変わらない)

 こんな人に会ったことがある。白黒映画はつまらないというのだ。私はすぐにそれを批判したが、実際のところ、わからなくもないこともないと感じていた。色彩のもたらす表現の多様性や、そのリアリズムは映画を楽しむのに重要なことだ。それがなかったら、確かに退屈に感じるかもしれない。ただ、一番大きな問題は、今の過激な表現に慣れてしまったおかげで、過去の表現がそれほどリアルに感じないということかもしれない。

 以前は、できることが少なかった。それは特殊撮影においても、ストーリーにおいてもである。1950年代のハリウッドですら、イングリッド・バーグマンロベルト・ロッセリーニと不倫の末に家庭を捨て結婚しただけで、仕事が減るような環境なのだ。今の日本の芸能界(私はあまりこと言葉が好きでない)でも同じようなー形骸化してしまってはいるがー道徳主義が残っている。

 そんな、できることが少なかった時代に比べて、いまはどんなことだってできる。科学技術の進歩と、1960年代後半からインディペンデント映画が押しし進めてきた表現の自由はいまだに成長を続け、今、まさに現在こそが常に黄金時代なのである。こうした刺激は、今では映画の枠を超え、物理的な経験を伴うビデオゲームとも結びついている。それであっても、テレビ画面からヘッドマウントディスプレイやコントローラーから我々の体の仕草へと進歩を続けている。

 私は時々不安になるのだ。それは長く続く夢のように終わりあるものなのだろうか。増大する刺激のはては、一体どこにあるのだろうか。と。

「殺したい女」

 

 監督:ジェリー・ザッカー、ジム・エイブラハムズ、デヴィッド・ザッカー

 1986年

 

 これは、伝説の映画「ケンタッキー・フライド・ムービー」から始まる、コメディ職人たちによる一連の映画作品の一つだ。

 下ネタ、皮肉が効いたジョーク、この映画でもそれは大いに味わえる。とはいえ、勘違いによって生まれる笑いが大半を占めているかもしれない。

 警察署所長を合わせれば、よつどもえになるのだろうが、それが簡単に書けるわけもない。原作があるにはあるが、多くのコメディシーンはそうではないだろう。

 

 特に書くことがないように感じる。というのも、この映画が良くできているからであって、文句をつけるわけにはいかないし、笑いのタネを説明するわけにもいかないのだ。ああ、確かに奇抜なスタイルがそこにはある。いかにも80年代というべきか。

 非の打ち所のない映画というのがある。それは、どこかで賞を取るような映画というわけではなく、単にその映画が作られた目的が十分に達成されていて、それでいて無駄もなく、不足もないということだ。そういった点で見れば、良くできた映画というのは非常に多く存在する。

 この映画のようにコメディで、リアリズムも重視しないスタイルだとそのハードルは、制作費の面から見ても低いと言える。「ケンタッキー・フライド・ムービー」もそうで、その次回作に当たる「フライングハイ」であっても、セットが安っぽかったりするが、それがどうしたという話なのである。そもそもがナンセンスな世界に対して、現実的な世界を求めるのは、これまたナンセンスとは言えないだろうか。

 

 こういう映画は、人に勧めやすいというか。大抵の人がが面白いと感じるようにできているので、まあ百聞は一見に如かずと言える。だからと言って、いつも感想を書いてる、文芸映画とか芸術寄りの作品を見なくていいと言っているわけではない。それぞれにそれぞれの使命があるのだ。

「カフェ・ソサエティ」

 

 監督:ウディ・アレン

 2016年

 

 埋没した黄金の都市を眺めるように、我々は古きハリウッドを見つめる。映画史にその名を残す名優たちを中心に、巨匠と言われる映画監督や脚本家、そして、優れた大作を世に送り出し続ける映画会社。

 スウィングする古いスタイルのジャズに乗って、男女は揺れ動く。実にウディ・アレンらしさが出ている映画だ。たとえ誰が作ったか事前に知らなくとも、ファンならばきっと言い当てることできるだろう。 冴えない男がなぜか美女とくっつくところなんて、まさにそうだと言える。そして、非ハリウッド的な型にはまらない恋愛映画の形もまた、ウディ・アレンらしさでもあろう。

 この映画は、栄華を誇るアメリカの上流社会の中で揺れ動く二人の若い男女を中心に物語が進む。それは、コメディ的なところもあれば、悲劇的とも言える。恋愛のあり方、そのものを描く、そのやり方はウディ・アレンの十八番だろう。(私は、それが彼のプライヴェートでの異性関係の自己弁護的な部分の表れではないかと思うことがある)

 一つのラヴソングの終わりに、二人は新年を迎える。このエンディングのために進められた二人の如何しようも無い愛は、理性的な終わりを迎え、ある人間の人生の瞬間を追体験しているかのような気持ちになる。これは映画が過去を顧みる形で進められること、そしてハリウッドのあの頃という背景によって呼び起こされるのかもしれない。

 

 この映画では、1930年のアメリカを舞台にしている。この頃といえば、大恐慌の時代から世界大戦へと向かう、貧困と不幸の影を持った時代でもある。映画スターや政治家が裕福で余裕のある生活を送る一方で、仕事にあぶれた飲んだくれがいて、人種差別が強くあった。

 「山猫」という映画について書いたことがあるが、まさに彼らがアメリカ社会における貴族だったのだろう。誰もがどこかで憧れ、一度味わうと抜け出せなくなる豊かさの魅力は、主人公二人が別れる過程で描かれる。

 

 テクニカラーの世界を、デジタル映画で撮影したこの作品には妙な違和感がある。それは過去を生きた世界として、カメラが捉えたからなのか。私の持つ、変わった感性か。

「第十七捕虜収容所」

 

 監督:ビリー・ワイルダー

 1953年

 

 どうやらこの映画、原作の演劇があるようで、オープニングの際にクレジットがある。映画化する際にどれだけの変更が加えられて、一体どこがビリー・ワイルダーによって書かれた部分であるかはさだけではないが、この映画は実に素晴らしい。

 コメディとして描かれる捕虜収容所はさながら、ロバート・アルトマン監督の「M★A★S★H」で描かれた野外病院のようだ。しかしそこには上質なサスペンスがあり、人間の醜悪な部分と戦争のもたらす緊張が描かれる。それは、洗練された映画作家としてのビリー・ワイルダーの腕の見せ所でもあるのだろう。

 以前このブログでも、良い戦争映画は悪い戦争を描くと書いた。それはこの映画にも当てはまり、捕虜の置かれる劣悪な環境や、片足を失った兵士、仲間を失ったショックでおかしくなってしまった男と、この映画には戦争で英雄になれなかった、普段スポットライトの当たることのない男たちがいる。それは戦争の持つ国家規模の存在価値や、政治的なプロパガンダを超越した戦争の、一見すると忘れられがちな悲惨な一面を我々に提示してみせる。

 ミステリーとしての質、サスペンス映画としての質、そして何よりコメディとしての質、それぞれが高い水準を持ち、戦争映画の体をなす。なぜハリウッドがこれだけの大きな映画のブランドとして、その名を歴史に名を刻んだのか。この映画を見ればわかるかも知れない。

 

 泥に汗、雪やつらら、貧相な小屋、そしてそこにいる様々な人間たち、これらが創り出す世界は非常に現実的に映る。それはこの映画が、1953年という第二次大戦から間もない時期に作られたことも関係するのだろう。多くの人に取材し、実際にそこにはどんな空気があって、どんな問題が起きたのか、そういった世界を作り上げる細かい部分に至るまでエンターテインメントの領域に収めつつ、それでいて現実的に作り上げる。こうした演出は、ビリー・ワイルダーだからこそなせる技かも知れない。

「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」

 

 監督:アン・リー

 2012年

 

 事実と真実の違いということが言われることがある。事実が物質的なもので、真実は精神的なものであると言えるだろうか。

 この映画にはトリックがある。それが、恐らくは貨物船の沈没のその最後の瞬間かもしれない。

 物語は、小説家が大人になった主人公、パイからその冒険譚を聞くという体裁をとる。そこはカナダのとある町で、我々のよく知った世界(都会)が広がっている。CGもなければ、動物もいない。

 それが、一度回想へと目を向けると、植民地であった頃のインドが現れる。それはもちろん、実際の街ではなく多くはセットであったりCGであったりする。ここで我々は最初の門をくぐることとなる。

 鮮やかな色彩と人間の野性味の残る生活、様々な信仰が身近にあり、主人公パイはそんな混沌とした世界で成長する。彼が出会ったのはおそらく神への猜疑心ではなかろうか。それは、父親の影響かもしれないし、またはいくつもの宗教があってそれぞれが異なる形で存在することの矛盾に気づいてしまったからなのかもしれない。

 そんな彼は、いくつかの宗教を試す、それはどこかにきっといるはずの神を探すことかもしれない。ただ、聖書にもあるように、神を試してはいけないのである。それがあったからゆえに彼は、受難の日々を過ごすこととなったのではないか。全てを失い、海を漂流する日々を。

 彼の受難は、乗っていた日本の貨物船の沈没から始まる。もしかすると、それ以前から始まっていたのかもしれないが。とにかく、彼はそこで家族を失い、その旅が始まるのだ。

 この映画は全て、最後の15分ほどのためにあると言って良いだろう。どれが何に対応するメタファーであるかは、ここで語るには多すぎるように思うし、それは映画を見ながら楽しむ類のものに違いない。ただ、最後に現実に戻ったときにのシーンが必要であったかどうかは疑問であるとだけ言っておく。

 

 今を生きる我々にとって、信仰とはいかなるものなのであろうか。そしてどのように活用するべきなのか。この映画はそうしたことを考えさせる。

 最近、とある有名な新興宗教の幹部やそのリーダーが死刑に処された。我が国における宗教事情は彼らの起こした犯罪によって、大きく変わったのでないだろうか。

 私は、自分をよくポストオウム世代だと言う。それは、宗教の持つ危険な一面を見て育った、そしてそれを見た大人によって育てられた世代という意味を持つ。

 こうした我々の世代は、特別な状況を除いて、多くの場合、敬虔であるということに対して、一種の嫌悪感や、侮蔑の感情を抱く。例えば、宗教など必要ないという論調が多く見られる点や、宗教は弱いもののためにあるとか、時代遅れの人々のためだとか、こうした意見はインターネットを中心によく見られるのでないだろうか。それはもしかすると、新興宗教、そして宗教そのものへの不信感からくるものなのではないかと私は思う。

 私自身、信仰を持つ人間ではない。だが、ここまで生きてくるのにそれが必要だった人間ではあるに違いない。それは多くの人間に当てはまるのではないだろうか、特に心の余裕のない人間たちに。この映画で描かれた神に関するテーマは、この苦痛に満ちた世界をどう生きるかを示してくれている。我々は、様々な悲しみや苦しみに出会う。そして、時にはそれに負けてしまうことがある。どこにも逃げることができない、袋小路。我々は常にそこにいるのだ。何かあれば故郷に戻って来ないさいという言葉がよくドラマなんかでは見られるが、この今を生きる我々に帰る故郷などあるのだろうか。

 我々の中には、自立といった建前や、伝統的な根性論といったものによって孤独に生きることを余儀無くされている、そんな人がいる。それは家にいても、どこにいても常に心の距離があるという状況を生む。そんな人間はどこに逃げるべきなのだろうか。少なくとも、それが死であってはならない、そう私は思う。

 この映画でパイが行ったことは消して恥ずべきことではない。弱いということでもない。生きるために、必要だったのだ。しかし、もし、彼が神を信じようともせずに漂流を続けていたらどうなっていただろうか。想像に難くはない。

 トラは最後にジャングルに消えてゆく、振り返ってくれなかったとパイは悲しむが、それでいいのだ。トラと友達になることは良いことではない。